リタイヤして妻からもらった最初のレター

既述の通り、私のリタイヤは出向11年3ヶ月を終えて、平成11年6月でした。妻から現役時代、節目節目でレターをもらってましたが、リタイヤして最初の結婚記念日(第34回)に、改めてレターをもらいました。原文のまま、ご紹介します。

思いおこせば、34年前、1月29日が又巡って来ましたね。正一さんとは34年間暮らして来たのですね・・・。

今は亡き、安好(やすよし)の伯父様、伯母様のご縁で正一さんとの出会いがありました。素晴らしい二人の子供にも恵まれ、今では美しく育った宝物となりました。

正一さん、43年のお勤めも無事、昨年の6月に終りとなり、長いお勤めご苦労様でした。サラリーマンとして、最高の取締役退任は一人の男性としても立派です。お仕事もいろいろ大変な事も多かったと思います。正一さんが、無事、勤めを終えていただいたお陰で、私達家族の幸せもあったと感謝しています。

長いサラリーマンで転勤も経験し、その土地土地で、どれもこれも素晴らしい想い出となりました。正一さんは優しくて、寛大で、頭が良く、真面目でユーモアもあり、私にとって、立派で尊敬のできる男性です。これまで正一さんから、色々な事を学ばせていただいて、ありがとうございました。このように素敵な男性との出会いがあった事、ご先祖様に感謝感謝の毎日です。

私達も、人生の折り返し点をとうに過ぎ、今までの人生より、ますます幸せな人生でありますように・・・。一度しかない人生です。正一さんとの出会いがあった事が、私達にとって素晴らしい人生だったと思います。これからも何かとよろしくお願い致します。       
かしこ

出向は波乱万丈で、不本意な事もありましたが、妻からのこのレターは、私に対する勤務評定(?)であり、私の生涯にとって、最も大切な物となっております。

私は、レターをもらうばかりではいけないと、妻へ返書しました。次回のブログでご覧下さい。

私は出向11年の記録保持者です。(続編)

【後編】
平成9年6月、59歳6ヶ月に至り、本社筆頭部といえる、営業企画部長の委嘱人事が発令され、私は東京単身赴任となりました。

当時、近畿支社が全支社(東北、関東、中部、近畿、中四国、九州)の稼ぎ頭となっていた事も、その背景にあったかもしれません。本社在勤の取締役となり、しかも営業企画部長職は、大変責任の重いポストでした。毎月開催される支社長会議(専務、常務クラスの支社長が出席)は実践レベルの最高会議でしたが、この会議の諸準備(含資料の作成)や司会進行を担当しました。

本社在籍役員による取締役会では、会社の重要事項の大部分が決定されます。従って、私は多忙でした。本社取締役会では、人事部門から提案される所属長(部長、支店長クラス)の人事評価や、人事異動案に異見を述べたり、入社試験の役員面接に営業部門担当役員として出席したり、幹部社員訓練時の役員講和を依頼されたり、更に、賞罰委員会で会社側代表として、労働組合の代表と、社員の賞罰について協議したりしました。また、どの部署とも所管がはっきりしない案件で、重要な事項の処理に当たったりと、正に男の晴れ舞台でした。

一方、私生活では、単身赴任なので、妻に月一回、後半になると二回来てもらいました。この機会にと、東京を起点に都内観光バス巡りや、東北全域、佐渡、房総方面等、二人で楽しい旅をしました。こうして、平成10年3月、親会社の定年退職辞令をもらってから、更に〇〇アクセスの取締役として、平成11年6月の株主総会まで勤務し、任期満了で退任しました。

今、振り返ると、2~3社の合併は珍しくありませんが、中堅5社が対等合併するケースは日本企業の歴史でも稀有の事ではないかと思います。

〇〇アクセス誕生から6年、それぞれの歴史を持つ5社の従業員を全く新しい、ひとつの会社に統合する事は、大変な事でしたが、私はその一翼を担う事ができました。新会社の基盤もようやく固まり、親会社に優るとも劣らない企業になったと、私は確信しました。「後は皆さんによろしく頼みます」という心境でした。

その時の退任役員送別会は目黒の高名な大料亭で行い(この段取りが私の最後の仕事になりましたが)その盛り上がりは〇〇アクセスの歴史に残る物になったと、今でも信じております。とにかく、躍動感溢れる時代でした。

しかし、この丁度1年後、親会社が大厄に襲われました。結局、〇〇アクセスはそのまま、大手商社傘下となり、□□アクセスと社名は変わりました。複雑な思いは残りますが、これも時の流れと割り切っております。

以上で、自伝第六話が終了しております。自伝ではふれておりませんが、〇〇アクセスは養子に出る事で、親元の危機を大きく救う、孝行息子となったと、私は今でも信じております。私の自伝を3年前、□□アクセスの社長(当時)へお送りした所、ご丁重な返書をいただきました。この手紙は、私の生涯の大切な締めくくりの一つとなっております。
【ふと思うこの世の疑問】|翁のひとりごと

私は出向11年の記録保持者です。(前編)

私は50歳3ヶ月の時、出向しました。当時、定年60歳の2~3年前に出向するパターンがほとんどでしたので、これは異例中の異例です。その理由は、どこからも聞く事ができませんでした。

出向に当たって、私は出向先に完全に同化する事を決意し、実行しました。この目標は、ほぼ達成したと思っております。しかし、このため、親元への自己アピールは欠落したと思います。このためか、地位は上昇しましたが、処遇面では必ずしもリンクせず、苦渋をなめました。これも過去の秘話となりましたが。

リタイヤしたのは、61歳6ヶ月でしたから、出向期間(移籍ではありません)は実に11年3ヶ月となり、珍記録ではないかと思っております。

9月21日掲載のブログ「自伝づくり始末」でふれた第6話「〇〇商事から〇〇アクセスへ」の原本を前編と後編にしてご紹介します。

昭和63年3月31日付で〇〇商事に取締役として出向が発令されました。〇〇商事は大阪に本社を置き、近畿を中心とする中堅食品卸売問屋でした。

【前編】
卸売業は、各種の食品をメーカーから仕入れ、品揃えして、小売業へ卸すのが仕事です。小売業の力が弱かった時代は、問屋の力は強大で “そうは問屋が卸さない” という言葉は誰でも知っております。親会社もたくさんのメーカーの中の一(いち)仕入先にすぎない事となり、色々な仕入先の長所や短所がよく見える立場となり、親会社から、中元、歳暮が届きました。

一年間は、卸売業の実務を把握する期間となり、二年目から、低温食品部門(アイスクリーム、冷凍食品、チルド食品等)の担当役員となりました。当時、アイスクリーム部門が大赤字でしたので、業務内容の分析と、対応策の模索、その実行に全力を傾注し、社長の助言や部下の協力を得て、黒字化に成功しました。

平成4年に至り、関西の〇〇商事、△△商事と関東の三社(いづれも親会社の系列問屋)の五社が対等合併する事が、極秘で決まりました。△△商事は、親会社の資本が一部入っているとはいえ、創業当時、北海道のバターを関西で販売するため、創業者達が日参した老舗問屋です。

新会社が誕生すると、実質的に日本最大の食品卸企業となるものでした。そのための下準備が必要で、各種部会が発足、五社の役員が極秘に会合を重ね、平成5年10月、新会社〇〇アクセスが誕生しました。合併五社の役員70余名の内から、10数名、親会社から数名(社長候補、支社長等)が新役員に就任しました。私もその一員に選任されました。親会社から出向し、〇〇商事、五年の経験者である事が、評価されたものと思われます。

近畿支社の低温営業部長、営業企画部長を歴任しました。この間、阪神大震災に遭遇、諸対応(社員の安否確認とフォロー、復旧対策の検討、臨時物流体制の確立等)の指揮にも当たりました。また、非常勤ながら、子会社の社長も兼務しました。

【後編】に続く・・・

歌を唄うということ

カラオケホールで皆さん熱唱する機会がありますか?
経験のある方は、次のようなことを感じておりませんか?

私の所感も併せて列記してみます。

①自分が唄う時間よりも人の歌を聞く時間が圧倒的に長いですね。しかも、歌の種類は実に多彩で、必ずしも自分の好みに合う楽曲ばかりではありません。でもこれは、お互い様です。心を込めて拍手しましょう。自分が唄う時に拍手してもらうためにも。

②最近は、新曲に熱心な方が多くなりました。カラオケで唄ってもらうため、唄いやすい曲が多くなっているのも事実です。歌詞も今ひとつで、乱造の気配があります。一回唄うと、著作権協会に3円が入り、全国カラオケ店9,500店で、一年(365日)唄われると、1,000万円が入り、これを、作詞家、作曲家、音楽出版社に配分される仕組みのようです。ですから、今はとにかく皆さんに唄ってもらいたいのです。私が好む難曲は、商売にならないのです。余計なことですが、プロ歌手の実力も低下しないかと、心配します。

③私は、60年唄っておりますが、昔の名曲を大事にして、その歌手の唄い方も考えながら、自分の曲にどこまで出来るか、挑戦しつづけております。最近、店のオーナーであるママに、味が出て来たと、おだてられる機会が増えて来ました。

④新曲をすぐに唄おうとすると、歌詞の理解や、歌唱の鍛錬が不充分のまま、自分が唄いやすいように変曲する傾向が強くなるのも事実です。私はこれを「となえ節」と呼んでおります。でも声を出すことは、心身に良いことは公認されていますから、お互いの歌に拍手しながら楽しみましょう。
【翁のひとりごと】|カラオケ雑感

人間社会は引継が大切です。

現代人は長寿となり、100歳もそれほど珍しくなくなりました。しかし、その人の人生経験、知恵、技、などは、次世代にうまく引き継がれているでしょうか。

現代は、当面の利便性や、効率の追求に最大の価値を求め、その為の研究や開発にエネルギーを使っているように見えます。先輩の人生経験や、知恵、技、などは軽視されがちになっているように思うのですが、いかがでしょう。

私は、社会のあらゆる場面で、先輩から後輩への引継ぎが、うまく行われていないのではと感じます。81歳を迎えた私は、一応、先輩と呼ばれる端くれに入ったと自覚して語ってみます。

昔、男は寡黙で、後ろ姿が大切と教えられました。しかし、私は、言葉が大切で、更に文字で記録することが大切と考えて来ました。まず、言葉ですが、愛情や感謝にかかわるものは、大胆に口にすべきと思います。これは、自分の心がけ次第で、勇気をもってやってみることです。

次に、記録ですが、文字として残すことは、次世代へのより確実な引継ぎとなります。いづれも、家族を中心とする個人的なレベルだけでなく、社会全般(官公庁、企業、諸団体等)に共通するテーマです。

未来志向は大切ですが、どのようにして、今日に至ったかを知っておくことは重要で、昨今の風潮をみると、かなり、これが欠落しているように感じます。引継ぎのルールをそれぞれ固め(定めるのとは少し違うと感じます)上手に引継ぐことが、先輩の仕事ともいえます。

私は、平成30年6月より “翁のひとりごと” と題してブログに投稿開始しましたが、人生の引継ぎにしたいと挑戦したのです。

多くの方々の目に留まらなくても、最低限、私の血族(子孫)には伝えておきたいと思っております。私の親を含む、先祖は、どんな人生経験をしたのか、知ることは出来ません。ブログに残しておける時代になりました。どこまで投稿できるか解りませんが、可能な限り、続けたいと思っております。

最後にお知らせです。妻のお正月料理(おせち)は、長女、次女が完全に引継いでおります。私は、リタイヤして20年近くなり、資産も残り少なくなって来ましたが、詳細な資産台帳を正月毎に作っております。

最近では、長女、次女にこれを開示もしました。両親に何が起きても、慌てないようにする為です。勿論、遺言書も作成し、その骨子は説明してあります。これは究極の引継といえます。親子といえども、結局、全幅の信頼関係が鍵となるのかもしれません。

※2018年正月に、長女と次女がそれぞれ作成したお節です。妻から完全に引き継がれております。今年は服喪中の為、お節料理は作成しませんでした。
【翁のひとりごと】|ふと思うこの世の疑問

手紙~親愛なる子供たちへ~

10月3日のブログ「金婚式祝賀パーティ模様から」の中で、妻が朗読した「手紙~親愛なる子供たちへ~日本語補作詞:樋口了一(ひぐちりょういち)」をご紹介します。

妻は、社会人福祉法人日本ライトハウスの視覚障害センターで、朗読スタッフとして活動してましたので、朗読はプロでした。この詞を親族の介護にかかわっている方が読むと、きっと涙すると思います。

原作詞/不詳、日本語訳詞/角智織となっており、樋口了一氏が、日本語補作詞しております。名訳だと思います。

【妻は娘が作成したこのブーケを持って朗読しました】
【翁のひとりごと】

~親愛なる子供たちへ~

【作詞】不詳【訳詞】角 智織【日本語補詞】樋口 了一【作曲】樋口 了一

年老いた私が ある日 今までの私と 違っていたとしても
どうかそのままの 私のことを 理解して欲しい
私が服の上に 食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを 教えたように 見守って欲しい

あなたと話す時 同じ話を何度も何度も 繰り返しても
その結末を どうかさえぎらずに うなずいて欲しい
あなたにせがまれて 繰り返し読んだ絵本の あたたかな結末は
いつも同じでも 私の心を 平和にしてくれた

悲しいことではないんだ 消えて去って行くように 見える私の心へと
励ましの まなざしを 向けてほしい

楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのを いやがることきには 思い出して欲しい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて
いやがるあなたと お風呂に入った 懐かしい日のことを

悲しいことではないんだ 旅立ちの前の準備をしている私に
祝福の祈りを捧げて欲しい

いずれ歯も弱り 飲み込むことさえ 出来なくなるかも知れない
足も衰えて 立ち上がる事すら 出来なくなったなら
あなたが か弱い足で 立ち上がろうと 私に助けを求めたように
よろめく私に どうかあなたの 手を握らせて欲しい

私の姿を見て 悲しんだり 自分が無力だと 思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力が ないのを知るのは つらい事だけど
私を理解して支えてくれる心だけを 持っていて欲しい

きっとそれだけで それだけで 私には勇気が わいてくるのです
あなたの人生の始まりに 私がしっかりと 付き添ったように
私の人生の終わりに 少しだけ付き添って欲しい

あなたが生まれてくれたことで 私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変らぬ愛を 持って笑顔で答えたい

私の子供たちへ
愛する子供たちへ

十数年前、この詞に出会って朗読したのですが、後半は涙声になってしまいました。

マンション活け花物語

妻は、当マンションエレベーターホールに活け花を、平成元年オープン(14階103戸)以来、出展しました。その労に対し、喜寿(77歳)を迎えた、平成27年6月、管理組合より感謝状をいただきました。

この時点では、本人は要介護段階となり、私が見よう見まねで引継ぎ、出品する状況となっておりました。

妻は、毎日文化センターの “いけばな&アレンジメント” 未生流彩鳳会教授として、第二、第四週、月曜18:00~20:00、講師として、永年務めました。後半の2年位は、杖が必要となり、私が付き添いました。

マンションのエレベーターホールに花があると、マンションの格が上がると、入居の方々から、今も好評を得ております。自分の居住区だけでなく、マンションの入口も、広い意味で居住区と考えて、生花を出品しております。

盛夏や、早春は、造花にしたり、花の組み合わせも工夫し、花瓶も時々替えたりします。私は、スマートフォンで写真を撮り、老人ホームの妻(師匠)に見せました。妻は、私が引き継いでいる事を知っており、 “ありがとう” といつも言われました。 もう妻に見せる事が出来なくなりました。

居住者の皆さんに、喜んでもらえるように、続けたいと思います。

【撮影:2019年1月18日 マンション1階エレベーターホールにて】
【翁のひとりごと】|ふと思うこの世の疑問

サヨリ釣りの報告と淀川について

昨年9月3日のブログで “サヨリ釣りの魅力” をご紹介しましたが、9月25日、15cm位の小型サヨリが20匹釣れました。これが、スタートとなり、10月31日まで23回の釣行で、712匹の釣果でした。後半は、30cmクラスも混ざりました。

昔は、11月一杯まで釣れたものですが、今年は、10月31日が最後でした。回遊魚なので、微妙なのです。

天日干しをして、妻の介護でお世話になっている方々や、知人に賞味していただきました。網で捕った魚は、魚体同志が擦れ、ストレスがかかり、味が落ちますが、一匹づつ釣った魚は、これが無く、しかも、数時間以内で調理(内臓を取り出す)し、調味液(焼酎と塩)に漬けて、天日干しするので、仕上がりが抜群なのです。高級料亭で出す、ウルメイワシは、漁師が一匹づつ釣るそうです。賞味した方から、例外なく、好評を得ます。今年の秋の釣りが待ち遠しい限りです。

【撮影:2017年秋】
【翁のひとりごと】|氣愛塾

最後に、淀川に関して気になる事を述べます。

昨年9月の台風21号は、満潮と強風による高潮により、淀川の水位が実に4~5mも上昇したと思われます。新伝法大橋右側岸上部に、延々と大量のゴミ(ポリ、木片等)が集積されました。これは単に、上流から流れて来たものではなく、水底に沈積していた物が、多い様に思われます。

この4~5年でカニやフナ虫等が、姿を消し、藻が全く姿を消しました。ハゼ(含種類)が激減しました。水底のゴミが主因では、と感じます。

淀川は、大阪湾を育む母川でもあります。淀川の水底を含む、綜合的な調査が必要です。

神や仏に祈るということ

現代は日常生活の中で、祈るということの比重は低くなっているように思いますが、いかがでしょうか。

難局に遭遇してはじめて、神、仏に祈るということはありそうですが。私は若いころから、神棚と仏壇にお祈りをしております。自己流で、基本的文言は、「一族の大難は小難へ、小難は無難へとお導き下さり、厚く御礼申し上げます」です。

人体は、小宇宙であり、神仏は自分の心の中に潜んでいるものと、解しております。手を合わせ、祈るというトレーニングを重ねると、自分の心に潜む神仏が活性化し、心身がパワーアップするのではないかと、感じております。神仏と共に、自分の命の源である祖先に対する、感謝の祈りは欠かせません。心をこめて祈る(感謝する)ことは、自分自身や家族のためだけでなく、世の中も明るくするものと信じます。最新の脳科学では、祈る効力を検証することも可能のように思います。例えば、祈ることで、脳波やホルモン等がどう変化するものか、祈りの仕組みが、解明されるかもしれません。

21世紀は、宗教と科学が限りなく接近する世紀になってほしいものです。

最後に、大切なことを忘れてはなりません。天皇陛下は、日本国(国民)の安寧(あんねい)を皇祖に毎日、祈っておられます。こんな国は、全世界でたぶん日本しかありません。今春、退位されますが、今上天皇は、実に第125代であらせられます。

司馬遼太郎作「酔って候」

正月なので、酒の話でスタートします。幕末、最後の土佐藩主、山内容堂を主人公とした司馬遼太郎作の「酔って候」の末巻に、本人の名詩文を “蛇足だが付け加えたくなった” として載せております。容堂公は、公武合体や大政奉還に関わった人物で、酒を好み、鯨海酔候と自称したと伝わります。

昨は橋南に飲み、今日は橋北に酔ふ酒あり、飲むべし、吾酔ふべし、
層楼傑閣、橋側にあり、
家郷万里、南洋に面す、
眥(なまじり)を決すれば、空闊(くうかつ)
碧茫々(そらぼうぼう)
唯見る、怒涛(どとう)の厳腹に触るるを壮観却(かえ)ってこの風光なし
顧(かえり)みて酒を呼べば、酒すでに至る、
快なるかな、痛飲放恣(ほうし)を極む
誰か言ふ、君子は徳行を極むと、
世上解せず、酔人の意(こころ)
還(かえ)らんと欲すれば、欄前燈(らんぜんともしび)なほ明らかに、
橋北橋南、ことごとく弦声(げんせい)

私は、この詩文は今でも空んじております。四国全域が仕事場であった時代(40代)高知(土佐)の高名な料亭での宴席で、この詩文を朗々と披露し、大喝采を受け、その後の仕事がうまく行きました。

妻は、高松市立太田中学校PTA副会長として大活躍した時期と重なります。更に、「命の電話相談員」であった事を思い出しました。スーパーウーマンだったのです。