「翁のひとりごと」休止致します。

2018年6月17日「それぞれの介護事情」でスタートしました “翁のひとりごと” 2019年12月15日120話(回)をもって一区切りとし、私家版を製作しようとしたのですが、2019年10月29日、心臓血管外科の大手術を受け、2019年12月3日(入院43日間)退院しました。以降、療養に努めておりますが、八十代の回復は容易ではありません。私にとって、53年間共にした伴侶の死による精神的打撃に加え、大手術による肉体的打撃は最後の試練です。

さて、今年も半年が過ぎましたが、全世界が新型ウィルスに翻弄され続けております。私のブログ実質最終稿は、現社会情勢をふまえ「病が語る日本史」としました。

「翁のひとりごと」は本日(6月21日)で2周年を迎えました。子孫に伝えたい事柄は、ほぼ記述しましたので、これをもって(132話)休止させていただきます。

これから、私家版の制作にとりかかり、ご縁のある方々に謹呈出来ればと、思っております。

自分のブログの思いが深く刻み込まれる「書籍での活字化」は、私にとって必須事項なのです。尚、新型コロナウィルスによる社会活動の著しい低下により、その完成は大幅に遅れるのではと覚悟しております。

2年間、ご愛読ありがとうございました。

最後にご報告です。声が出ずらかったのが、お陰様でほぼ回復しました。週1回「短期間型通所リハビリテーション」に通っており、体調の回復も順調です。

皆様のご多幸をお祈り致します。

小野寺 正一

翁のひとりごと|ふと思うこの世の疑問
写真:2019年8月に訪れた北海道

続:病が語る日本史

以下、5月17日の後編となります。

「時代がくだるにつれて疫病が海外から入ることや、病をはやらす疫神がいると想定するようになり、政治と疫病が無縁になっていった。その頃から伝染病は、人から人へと感染する。隔離が効果あるという考えが生まれてくる。そして、近代になって、伝染病の予防法を教えた西洋医学が漢方を制覇した。さらに、現代では、長い間恐れてきた伝染病に対する見方が変わった。あれほど恐れていた、天然痘が撲滅された。しかし、自然は簡単に引き下がらない。天然痘に続いてポリオの克服を目指しているが、簡単ではない。また、新しい病気も現れている。

一方、古代では、個々の人の病は怨念が物の怪になって人を襲うのだと信じ、祈祷を行った。近代以前は、無力な医療より、祈祷が信頼されていた。しかし、近代医学は、病気の原因を科学的に明らかにして、宗教から医学を分離した。しかし、我々は、今も病気からの回復を神に祈り、健康を祈り、神社仏閣に初詣をする。からだは広大無辺な自然のなかに生きていること、自然の威力に逆らう恐ろしさを覚えているからだ。現代の医療は、治療法も格段に進歩し、公衆衛生がすすみ、病を予防することができるようになった。それでどれだけ多くの人々が助かったか、歴史を見るとその重みがよくわかる。

ところで、いまでこそ医学は自然科学に属するが、病み治療する歴史は、科学史より、文化史である。医療は、からだの文化史である。病み苦しみには天下人も勝てない。そこには、ひたすら病から救われたいと願い、もだえ、虚飾を捨て去った人間の姿が見える。栄華をきわめた、藤原道長も、平清盛も徳川家康も、最後は病苦に痛めつけられて、生涯を終えている。長寿を礼賛していた杉田玄白も、老いていく、からだの衰えには勝てず、その嘆きを随筆に書きとどめている。病気は、人というからだの中でおこっている異常の表れである。祈祷は、こころを癒したが、からだの異常をとらえることができなかった。自然科学の医学は、それをからだから取り出して、詳しく調べて結果を出すが、こころをからだに置き去りにしてきた。歴史を振り返ると、医療の発展のすばらしさに感嘆するが、ほころびも見えてくる。薬害、公害、医原病がなぜおこるのか、全人的医療が求められ、必要だと思い、その方向に向かっているのだが、行く先はまだ遠い。」

以上、「病が語る日本史」の「あとがき」ご紹介しました。

翁のひとりごと|ふと思うこの世の疑問

病が語る日本史

今年は新型コロナウイルスの世界的蔓延により、遂に東京オリンピックが延期となりました。標題の「病が語る日本史」は、平成14年4月講談社から発行(著者:酒井シヅさん)された本で、現コロナ災害時に最適な本と考え、書棚から探し出し読み返しました。著書の「あとがき」が大変解りやすく、そのままご紹介させていただきます。

「現代人にとって医学や医療は、誰にとっても多かれ少なかれ、関心のある話題である。とりわけ、健康への関心がいちだんと高まっている昨今は、誰もが健やかに長生きすることを望み、最後はぽっくり死ぬことができればと願っている。だが、ままならない。胎内にいるときから危機にさらされ、生まれたあとも、さまざまな危険が待ち受けていて、健やかに生きることは容易ではない。しかし、むかしは生まれること自体、もっとたいへんであった。そして生まれても、天然痘や消化不良で、ばたばたと死んでいった。天然痘を無事に乗り越えたときに、はじめて誕生を祝い、名前をつけた地方もあった。その上、一人前に成長するまでに、命を脅かす、さまざまなことに出会った。だから、こどもの成長にあわせた通過儀礼が重い意味をもったのである。本書では、遠い昔、縄文時代にまでさかのぼって振り返り、遺跡から発掘された骨が語る縄文生活に耳を傾け、きびしい環境で暮らした縄文人の生き様に思いを馳せた。その骨は、強靭な生活力や、自然治癒の威力をまざまざと見せてくれる。われわれも本来、このような自然治癒力をもっているはずであるが、人工的は環境の中で失われてしまったのだと教えてくれる。弥生時代になると、結核を病んだ骨が現れる。結核は二十世紀に抗結核剤が見つかるまで、人類を痛めつけてきた。梅毒もまた、人類を苦しめた病であった。病んだ骨が、江戸時代の遺跡から無数に発掘される。梅毒はいまは、抗生物質で治るようになったが、ひとつの病が治るようになっても、エイズのように別の病が現われて、われわれを慌てさせる。古代では、神が疫病を支配すると信じ、疫病が広がるのは、天皇の失政に対する神々の怒りの現れであると、天に向かって神々の怒りをとくために大々的な祈祷を行った。祈祷が医療より優先したのである」

以下、次のブログへ・・・

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祝婚歌~吉野弘~

亡き妻と私が40代の高松時代、彼女が読書サークルで入手した詩人、吉野弘さん(1926~2014年)の代表作「祝婚歌」を初めて知り、その言葉の丁寧さに驚嘆しました。そしてその優しさに。

以下、声に出してゆっくり読んでみて下さい。

二人が睦まじくいるためには、愚かでいるほうがいい。
立派すぎないほうがいい。立派すぎることは、長持ちしないことだと気付いているほうがいい。
完璧をめざさないほうがいい。完璧なんて不自然なことだと、うそぶいているほうがいい。
二人のうちどちらかが、ふざけているほうがいい。
ずっこけているほうがいい。
互いに非難することがあっても、非難できる資格が自分にあったかどうか、あとで疑わしくなるほうがいい。
正しいことを言うときは、少しひかえめにするほうがいい。
正しいことを言うときは、相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい。
立派でありたいとか、正しくありたいとかいう無理な緊張には、色目を使わず、ゆったり、ゆたかに、光を浴びているほうがいい。
健康で風に吹かれながら、生きていることのなつかしさに、ふと胸が熱くなる。そんな日があってもいい。
そしてなぜ胸が熱くなるのか、黙っていても二人にはわかるのであってほしい。

この詩は二人の娘の結婚披露宴で、亡き妻が朗読したことを思い出させてくれます。
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年代別食事量の考察

著名な作家、五木寛之さん(昭和7年生まれ)は、根拠はない、としながら、自分自身の体調をもとに「腹八分の説」を唱えております。

十代までは腹十分、
二十代までは腹九分、
三十代では腹八分、やや控えめ、
四十代にはいると腹七分くらいでちょうどいい。
五十代で腹六分、
六十代にはいれば腹五分をおすすめする。
七十代の方々は、腹四分ぐらいが適当ではあるまいか。
八十代ともなれば、腹三分で十分だ。
ちょうど、今の私がその時期である。
一日一食どころか、まるで食事を忘れている日さえあるのだが、当面これといった問題はない。
九十代では、腹二分、
百歳を超えた方々は、腹一分で十分だろう。
本当は霞(かすみ)を食ってでも生きていける時期である。
もちろん、これには何の裏付けもない。自分で冗談半分にでっちあげた説だ。
しかし、朝からビフテキというのは、スーパー老人の食生活ではあるまいか。
食べる事が生命力の土台だとは、私もそう思っている。
しかし、人はさまざまだ。
肉なんぞ一生に一度も口にせずに長生きしていらっしゃる方も少なくない。
人間一般に通用する説など、なかなかないのである。
要は、自分で自分の体を向き合うことだ。
これはまずいなと感じた時は、さっさと撤退する。

以上、大胆な説ですが、参考になるような気がします。私は八十代、味覚の衰え、食欲の低下に悩んでいますが、食事の量にこだわらす、自分の食欲に順応した食生活を模索して行きたいと思います。
ふと思うこの世の疑問|翁のひとりごと

参照:新潮社 https://www.shinchosha.co.jp/writer/806/

ある科学者の受難物語

自ら作った望遠鏡で天体を観測し、コペルニクスの地動説を証明したガリレオガリレイ(1564~1642年)は、1633年69歳の時、その説が聖書を冒涜するという罪に問われ、著述も出版も禁じられ、終身監禁状態になった。「それでも地球は動く」と言ったというのは伝説で、彼はこの裁判に服したのだが、しかし、この伝説は、彼の心中を表現したものであった。

1641年11月彼は熱病にかかり、翌年1月8日に死んだが、なお協会の迫害は続き、約100年間その遺体は棺に納められたまま、教会の地下室に置かれ、墓をたてる事は許されなかった。ヴァチカンが、教会側の罪を認め、ガリレオに謝罪したのは、かの宗教裁判から350年後の “1983年” ローマ法王ヨハネ・パウロ二世によってであった。むろん、ガリレオの知ったことではない。

以上は昨年11月24日掲載「私がおすすめの書籍二冊」の一冊「人間臨終図鑑」の一編(ガリレオ)から抜粋したものです。

ガリレオの地動説は、教科書に載っていると思いますが、このような驚くべき顛末まで知っている人は少ないように思います。

現代では考えられませんが、今は既存宗教の力が相対的に低下し、 “科学教” という宗教に支配されています。

革新的説に対する受難は、姿を変えて存在しているかもしれません。
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妻を亡くし慟哭した作家の物語

「弥太郎笠」や「父子鷹」の作者、というより「座頭市」の生みの親として知られる、子母沢寛(しもざわかん:1892~1968年)は、昭和41年11月、妻・たまを喪ったとき、

かっとむいた眼から、滝のように涙を流し続け、はては涙も涸れつくして、ただ、喉の奥から嗚咽の声をもらすのみといった状態で悲しんだが、それ以来、めっきり弱った。

翌々年の昭和43年7月19日、心筋梗塞で死んだ。

子息の梅谷竜一は語る。

「父の死んだことは、母のそばへ行くことで、父にとっては、それがかえって楽しみだったんじゃないかと思っています」

なお、有名な「座頭市物語」は四百字原稿にして、十五、六枚の短編に過ぎない。

以上は、昨年11月24日掲載「私がおすすめの書籍二冊」の一冊、「人間臨終図鑑」の一編(子母沢寛)から抜粋したものです。

「座頭市物語」は名優、勝新太郎主演で、映画、TVドラマでシリーズ化され、大ヒットしました。子母沢寛は、 “あの世” の存在を信じていたことが伺えます。

それにしても、妻の死を嘆きすぎるのは体に良くないことが伝わります。私も参考にしたいと思います。

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参考:新潮社サイト https://www.shinchosha.co.jp/writer/1753/

東京オリンピックについて思う

今年は皆さんご承知のように東京オリンピックが開催されます。

さて、1964年(昭和39年)10月10日から2週間の会期で、東京オリンピックが我が国で初めて開催されました。55年前の事です。私は当時26歳で、独身時代でした。丁度、この頃、虫垂炎の手術を受け、広島市内の病院に入院していた事を思い出します。当時は虫垂炎でも、一週間の入院が必要な時代でした。

先日、NHKスペシャル「東京ブラックホール」という番組を見る機会があり、当時の社会の光の部分でなく、影の部分が取り上げられ、私自身忘れかけていた記憶がよみがえりました。

東京の1945年(終戦時)の人口は、300万人に激減し、20年後の1964年(昭和39年)には、1,000万人に膨れ上がっておりました。当時の日本は、産業公害(大気汚染、河川・海洋汚染等)労災事故続発、水不足、交通事故死亡率世界一、出稼ぎ行方不明者8万人、等々、大変な状況でしたが、特に東京は人口膨張にインフラ整備が追い付かず、オリンピック開催による思い切った整備が、国の政策であったように思います。

NHKスペシャル「東京ブラックホール」の中で印象に残ったのは、「現在の輸血は100%、献血方式で厳格なチェックがされてますが、当時は90%が売血方式で、安全性は保障されていませんでした。」このため輸血による後遺症問題は、今でも引きずっております。
もう一つ忘れてましたが、「東京オリンピック開催中の10月16日、中国が核実験を行いました。」このため放射能が平時の東京で100倍、高知で500倍、新潟で1,000倍に達したとの事です。

今年の東京オリンピックは、前回から55年も経過し、日本も世界も変貌しております。今回は、人為的なトラブルより、自然の猛威が気がかりです。台風や地震が避けられ、無事オリンピックが閉幕する事を祈るばかりです。加えて、新型コロナウイルスの早期終息を祈ります。
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大難は小難、小難は無難へ

既報の通り、昨年10月22日、近くの淀川でサヨリ釣り中に、背中を刃物で切られた様な衝撃を受け、胸部大動脈解離を起こし、開胸手術(胸骨正中開胸到達法~23㎝開胸)を受けました。

退院して70余日となって、つくづく私は、大難は小難で済んだのだと思います。毎日、神仏に「一族の大難は小難、小難は無難へとお導き下さり、厚く御礼申し上げます」と、感謝のお祈りをしておりますが、ご加護があったのだと痛感します。大阪市立総合医療センターの心臓血管外科で、最新技術を駆使した手術を受ける事ができたのです。

昨年9月1日のブログ「妻の実家のお墓参りをしました」、9月8日の「私の故郷(網走)のお墓参りをしました」の通り、8月にそれぞれ旅をしておりますが、この旅行中に列車や航空機の中で発症したら、どんな事になったか想像するのも恐ろしい話です。

神仏は、大難は小難へとお導き下さったのだと、感謝の気持ちで一杯になります。

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私の入院、退院夜話

既報の通り、昨年43日間入院しました。身体的な苦痛や制約は当然でしたが、意外なことが負荷となりました。

私は身長183cmありましたが、加齢と共に縮まり現在は180cm位となっております。病院のベッドは180cmに対応する設計になっていないのです。どうも、175cm位を上限としているようなのです。従って、少し体の位置が下がると、足がベッドの金具に当たるため、足の向きを変えたり苦労しました。

もう一つ忘れられないのは、三度の病院食です。塩分を極端に制限している感じで、物足りなくなり、加えて味覚も衰えて来ており、全く美味しくないのです。医師の許可を得て、娘に梅干しやミカンを差し入れてもらいました。

退院後は、自立を目指し、一日三度の食材(既製品)の調達、掃除(コロコロ)、洗濯、風呂管理等は自力で何とかやっておりますが、一つの動作は長続きせず(疲労感が出やすい)、すぐソファーに横になります。スーパーやコンビニへは自転車を利用するケースが多いのですが、自転車のチェーンは①②③のうち一番ゆっくりする①にしております。

マンションのベランダ(25㎡)の鉢への水やり(週一度)や、休日の夕食は、次女がほとんど受け持っているのが実状です。

声が出ずらい「嗄声~させい」という合併症は、私の一番気にしているところです。手術前通り、毎夕、発声練習も兼ねて「南無妙法蓮華経」(一部省略)を唱えているのですが、声量はなかなか回復しません。今までが10とすれば、3か4の声量です。

60年唄って来た歌が唄えるようになれるか、天意に従うしかありません。
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