ハピネスキャリアプロジェクトとは?

私は出向11年の記録保持者です。(続編)

翁のひとりごと | 氣愛塾 翁のひとりごと

【後編】
平成9年6月、59歳6ヶ月に至り、本社筆頭部といえる、営業企画部長の委嘱人事が発令され、私は東京単身赴任となりました。

当時、近畿支社が全支社(東北、関東、中部、近畿、中四国、九州)の稼ぎ頭となっていた事も、その背景にあったかもしれません。本社在勤の取締役となり、しかも営業企画部長職は、大変責任の重いポストでした。毎月開催される支社長会議(専務、常務クラスの支社長が出席)は実践レベルの最高会議でしたが、この会議の諸準備(含資料の作成)や司会進行を担当しました。

本社在籍役員による取締役会では、会社の重要事項の大部分が決定されます。従って、私は多忙でした。本社取締役会では、人事部門から提案される所属長(部長、支店長クラス)の人事評価や、人事異動案に異見を述べたり、入社試験の役員面接に営業部門担当役員として出席したり、幹部社員訓練時の役員講和を依頼されたり、更に、賞罰委員会で会社側代表として、労働組合の代表と、社員の賞罰について協議したりしました。また、どの部署とも所管がはっきりしない案件で、重要な事項の処理に当たったりと、正に男の晴れ舞台でした。

一方、私生活では、単身赴任なので、妻に月一回、後半になると二回来てもらいました。この機会にと、東京を起点に都内観光バス巡りや、東北全域、佐渡、房総方面等、二人で楽しい旅をしました。こうして、平成10年3月、親会社の定年退職辞令をもらってから、更に〇〇アクセスの取締役として、平成11年6月の株主総会まで勤務し、任期満了で退任しました。

今、振り返ると、2~3社の合併は珍しくありませんが、中堅5社が対等合併するケースは日本企業の歴史でも稀有の事ではないかと思います。

〇〇アクセス誕生から6年、それぞれの歴史を持つ5社の従業員を全く新しい、ひとつの会社に統合する事は、大変な事でしたが、私はその一翼を担う事ができました。新会社の基盤もようやく固まり、親会社に優るとも劣らない企業になったと、私は確信しました。「後は皆さんによろしく頼みます」という心境でした。

その時の退任役員送別会は目黒の高名な大料亭で行い(この段取りが私の最後の仕事になりましたが)その盛り上がりは〇〇アクセスの歴史に残る物になったと、今でも信じております。とにかく、躍動感溢れる時代でした。

しかし、この丁度1年後、親会社が大厄に襲われました。結局、〇〇アクセスはそのまま、大手商社傘下となり、□□アクセスと社名は変わりました。複雑な思いは残りますが、これも時の流れと割り切っております。

以上で、自伝第六話が終了しております。自伝ではふれておりませんが、〇〇アクセスは養子に出る事で、親元の危機を大きく救う、孝行息子となったと、私は今でも信じております。私の自伝を3年前、□□アクセスの社長(当時)へお送りした所、ご丁重な返書をいただきました。この手紙は、私の生涯の大切な締めくくりの一つとなっております。

私は出向11年の記録保持者です。(続編)| 氣愛塾

タイトルとURLをコピーしました