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自伝第三話「広島時代」

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~東瀬棚を午後、工場の皆さん(含家族)に見送られ出発、「青函連絡船」で一泊、「急行日本海」で青森から(車中泊し)大阪を経由して、広島に午後二時に着きました。2泊3日の旅で、寝台車も使わず、普通座席でした。若かったのです。最終の東京勤務時は、全てグリーン車となり、今昔の感に耐えません。

広島支店では、販売企画課に所属し、仕事をこなしました。支店の仕事は、すぐに慣れましたが、北海道で生まれ育った人間にとっては、広島の暑さは耐え難いものでした。又、言葉や生活文化の違いに大いに戸惑ったものです。

当時は、労働組合運動が盛んで、〇〇乳業労組も7千名の組合員を擁する、食品労連(上部団体)の中核組織でした。間もなく、私は広島支店支部委員長となりました。全国大会が、被爆地という事で、広島で開催される事となり、東京支店支部長と私が、議長を務めました。25歳の頃だったと思います。

一労組の全国大会でも規模は大きく、全国から150名位の代表者や関係者が集まりました。2~3日の会期だったと思いますが、広島の飲み処に大勢を案内したものです。

さて、広島時代の最大の出来事は、房子との出合い、結婚、そして雅子と貴子の誕生です。

下宿も何度か替り、観音本町に住んだ時、隣の安好(やすよし)さんからの紹介で、宮島の大店(オオダナ)正木屋(お土産店)の長女、正木房子さんとお見合いをする事となりました。正木屋は、祖父が厳島神社の氏子総代を務めた事もある、旧家でした。

お見合いは、昭和40年12月中旬でした。今考えても全く不思議なのですが、トントンと話が進み、翌、昭和41年1月29日、結婚式となりました。正木屋の商売上の理由(閑散期)もあるとはいえ、信じられない進行でした。これは、人智を越えた大きな力が働いたものと、今でも信じて疑いません。

本自伝の「網走(マサイチ)と宮島(フサコ)の物語」が始まったのです。~

以上で、第三話を終了していますが、当時、会社が確保する独身者の下宿は、2名の同宿が大原則で、4ヶ所変わり、今は故人となった3人の同僚とそれぞれ暮らしました。当時、プライベートといった概念はほとんどありませんでした。

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