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自伝第一話「旅立ち」

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昨年9月21日のブログ「自伝づくり始末」で平成27年春、喜寿(77歳)を迎えた記念に「自伝」を完成(第一話から第九話)した旨、お知らせし、9月24日第八話、今年に入って2月10日、2月15日に第六話を掲載しました。残る第一話から第九話まで順次、掲載させていただきます。本日(3月22日)は第一話「旅立ち」です。

~私が生まれたのは、昭和12年12月ですが、戸籍上は昭和13年1月3日です。寅年でなく、丑年となります。

日本が本格的に戦争に突入する日中戦争が始まった年でした。誕生地は、網走からかなり離れた原生花園で有名な、浜小清水(ハマコシミズ)から更に数キロ内陸に入った、浦士別(ウラシベツ)という所で、間もなく網走市内に転居したのです。住所は網走市北八条東一丁目で、二丁目は無く、そこは海岸(砂浜)でした。

太平洋戦争前後が育ち盛りで、終戦の時は、小学校二年生でした。物資は極端に欠乏し、今では想像もつかない時代でした。加えて、あの頃は、低温期だった様で、冬は大雪で家が埋まり、外に出る事も出来ない日がありました。朝、掛布団の上べりに息が霜になって、真っ白に付着していました。零下、何十度の日は当たり前だったのです。

あの当時は、まともな防寒具はありませんでした。今から思うと、よく暮らせたものだと思います。

家族構成は、私が長男で、下に女子3人、男子3人の計7人の子供と両親、祖母でしたが、男子2人は幼くして肺炎で亡くなりました。未だペニシリンが普及する以前でした。

あの頃、子供達は、広場や海岸で世代毎に仲間が集まり、遊ぶのに夢中でした。怪我をする子供も多かったのですが、親もあまり気にせず、トラブルは少なかった様に思います。日本国中が貧乏で、粗末な狭い住宅に住んで、食糧も不足していましたが、我が家も含め、多くの人々は明るく、堂々としていました。

父は、水産加工場の責任者で、母も共に、朝早くから長時間働いておりました。魚の運搬は馬車でした。

私は祖母や母の言動や姿を見て、子供心に女性は凄いものだと感じ、 “女性を大切にするべき” と擦り込まれたように思います。

高等学校へ進学する人は40%位で、残る60%は中学校卒業して就職するのが普通でした。高校に入ると家計を助ける為、新聞配達をしましたが、冬の朝の仕事は辛いものでした。3年生になると、中学生2人、高校1年生の家庭教師をやりました。今ではちょっと信じられない話です。

昭和31年3月、北海道立網走向陽高等学校第六回卒業生は200名で、学業成績優秀者(2名)の一人に私が選ばれました。もう一人の〇〇君は、北海道大学工学部に進みました。私は、この他、網走新聞社長賞(1名)を受賞しました。高校3年の文化祭での英語劇 “ジャンバルジャン” で、私がジャンバルジャン、〇〇君が神父役でした。

さて、私は〇〇乳業の本社採用試験(テスト、面接)に合格し、昭和31年3月30日、網走を夜汽車で出立し、翌朝、北海道の首都、札幌に降り立ちました。当時、北海道拓殖銀行、〇〇乳業は憧れの企業でした。18歳春の事です。~

以上で、第一話終了してますが、当時は子供が4~5人の家族が普通でした。網走には二つの高等学校があり、私の学校の卒業生だけで200名も居たのです。

【2019年3月16日(土)娘二人と共に、網走市北八条東一丁目辺りとオホーツク海を訪れました。】

自伝第一話「旅立ち」| 氣愛塾

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