ハピネスキャリアプロジェクトとは?

子供の頃の、故郷(網走)での食料事情

翁のひとりごと | 氣愛塾 翁のひとりごと

終戦は、私の小学校2年生の時でした。

米は入手がままならず、代用食としてジャガイモとその加工品、カボチャ、トウモロコシ等でした。秋にはカボチャばかり食べて、手をにぎって開くと黄色の斑文が現れました。
ビタミン過多だった様です。

魚はたくさんとれましたが、当時、冷蔵設備として氷を一部使うぐらいで、網走港から馬車で加工場まで運び、大釜でボイルし魚カスと魚油を作っていました。スケトウダラの干物、スルメ、ホタテ貝柱等も産品で、私の父母はこうした仕事に従事しておりました。朝、毛ガニがとれすぎると翌日まで保存ができないので、ボイルしてムシロに敷き、魚カスの一部となりました。当時、日によっては100匹の単位で干していました。

あの頃は、漁師同士の漁獲調整はできていない時代だったのです。

現在、大型の毛ガニは1匹1万円以上の値がつきますが、カニの中でも味は最上位です。キンキという高級魚(北海道ではメイメイセン)は網走では産地として今も有名ですが、
当時わが家ではごく普通に煮つけとして出されました。1人1匹づづでした。ウニでも網走のエゾバフンウニは最高級品で、当時は漁業規制も無く、短い夏、海水浴しながら自由にとって帰り食べました。

今思えばあの頃は、米こそなかなか口に入らなかったけれども、栄養満点でしかも高級な食材を常食していたのだと気づかされます。

真ホッケの一夜干しを、七輪で皮がキツネ色に焼いて食べた至福の時は、今も忘れられません。

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