初めまして!福田雅子です!
家族や友人、知人からは「いつも元氣でパワフルだよね!」とよく言われます。
研修や講座の受講生の皆さんからは「雅子先生に会うと元氣が出る!」とよく言われます。
そう言われると、心が喜び氣愛がみなぎるので、私は、周りの人を巻き込んで、明るく元氣にイキイキとした日々を過ごす事ができています。
それが、私自身の幸せだと感じています。
元氣が無い人、何かに悩んでいる人、心を元氣にしたいと思っている人を見ると、どうしても手を差し伸べたくなってしまいます。
なぜ、そうなってしまうのかを考えてみると……
そう、きっと、これは究極の「お節介」なんだと氣付きました。
誰よりも自分の人生を「ハピネスキャリア」にしたいと願っている私は、私と関わる「今よりもっと幸せになりたい!」と願っている全ての人にもお節介をしたいんです!
そして、幸せな人生にしてもらいたいんです!
だから、私はハピネスキャリアプロジェクトの活動をスタートさせ、世の中を “キラビト” で一杯にする!ことを目指しています。
人生のストーリー
そんな福田雅子が、どんな人生を歩んできたのか、私自身も振返りたいと思いますので、ぜひお付き合いください。
今回は、私が企業研修や大学の授業でよく利用しているシートで振り返ります。このシートは、過去の自分を振り返る時に役立ちます。
年代を区切り、それぞれの年代で印象に残っている出来事・想い出・エピソードの概略を記入し、そのエピソードにタイトルをつけます。
そうすると、何度も繰り返し出てくるキーワードがあったり、その年代を象徴するキーワードが何かを知ることもでき、自己分析が深まります。
私も実際に振り返り、「雅子のパーソナルヒストリー」としました。
そして、各年代から印象的な出来事を3つずつ選び、詳細なストーリーを展開しています。各エピソードのタイトルをクリックすると、詳細がご覧いただけますので是非!
出生~小学校時代
「みなえ」先生。最初は、どうやって読むのかとても氣になりました。
とても印象的なお名前だったことと、エレクトーン演奏をしている先生が物凄くカッコ良かったこと、とても厳しい先生だったことが鮮明に記憶に残っています。
物凄くカッコいい演奏にあこがれて、YAHAMAのレッスン以外にも、御薬袋先生に週1回直接指導をして頂いていました。JRの摂津富田の駅から徒歩15分ほどの距離にあるご自宅まで通っていたんです!
そのおかげで、エレクトーンの技術もみるみる上達し、御薬袋先生の勧めもあって、沢山のコンテストに参加するようになりました。
- ビートルズの「Let It Be」
- ジョージ・ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」
この2曲はとてもカッコよく弾けて、大会でも好成績を残せた記憶があり、今でも途中まで弾けます!
タイトルは忘れてしまいましたが、自分で作曲した曲でコンテストに参加したこともありました。
当時は大阪府茨木市に住んでいたので、茨木市民会館で演奏する機会が多かったのですが、その経験が人前に一人で舞台に立つことの自信の種を増やしました。
そして、「人前に立っても緊張しすぎずに堂々と振る舞うことが出来る」という今の自分のきっかけになったのだと感じます。
その時、レッスンに通う事や、練習を楽しんでいたのかと言うと・・・
全くそうではありませんでした(笑)
母に叱咤激励されて、それでも嫌々やっていた時期もあったと思います。
でも、今となっては、その経験があったからこそ、人前で堂々と話ができる今の自分が居るのだと思うと、厳しかった母と御薬袋先生への感謝の氣持ちで一杯になります。
娘の夏己のピアノ発表会で、「乙女の祈り」「エリーゼのために」「情熱大陸」を連弾できたのも、この経験のおかげです。
頑張った経験は、やはり未来に繋がっていますね!
やはり母からの勧めでした。
母は、様々な所にアンテナを張っていて、私にとって良い経験になると思うことは、「せっかくだからチャレンジしなさい!」と兎に角沢山の機会を与えてくれました。
あっ、勿論、嫌々やっていたものも沢山あります。
お母さんごめんなさい(笑)
その中で、私が書いた創作文「子犬のチビ」が学校の先生たちに推薦されて、小学校代表で市のコンクールに出場することになったのです。
記憶が正しければ、茨木市民会館大ホールだったと思います。
文章を書くのは好きだったのですが、それを、本当に上手に添削してくれるのが父でした。
文章力は、父のおかげで磨かれました。
父が凄いのは、私の文章を全く違うものにするのではなく、私の表現の良さを活かしながら、より良くなるように指導してくれたので、自分でも文章力が上達していくのを感じることができました。
そのコンクールでは「子犬のチビ」を、舞台上で原稿を見ずに発表しなければならず、何度も何度もテープレコーダーに録音して練習しました。
ピンポーンとベルが鳴りました。
お父さんが帰ってきました。
あきひこは「おかえりなさ~い。」と元氣に玄関に飛んでいきました。
スタート部分は、今でも覚えています。
そしてクライマックスシーンは
雪の降る寒い日に、あなたの小さな子犬に命を助けられ……
あ~、この後の表現を忘れてしまいましたが、ストーリーの概要はこうです。
お父さんがある日子犬を連れて帰ってくれて飼う事になり、「チビ」と名付けた。
雪の降る寒い日に、チビが「わんわん」と吠えて、雪の中に埋もれている人が居る事を、あきひこ達に知らせ、その人を救った。助けられた人が、後日あきひこの家を訪れ、チビとあきひこ達に感謝の氣持ちを伝えた。
チビも嬉しそうに、わんわん吠えていた。
あ~、今となってはちゃんと保管しておけば良かったと後悔ですが、何度も練習したので、一部は完全に覚えているんです。
文章力に自信を付けたおかげで、その後、高校生の時に「壷井栄賞を受賞する」という経験にも繋がっていくのです。
その話は、「母の夢を叶える!」で是非!
運動会の鼓笛隊の総指揮者に抜擢されたことです。
生徒会の副会長への立候補も、その当時は自分から積極的にというより、PTAの役員をやっていた母からの勧めでの立候補でした。
勿論クラスメイトからも推薦されて立候補することになったのですが、選挙用のポスターを作成し、昼休みには選挙運動もして、だんだん本氣になっていきました。
副会長への立候補者は、私以外男性ばかりだったのですが、その中で圧倒的な票数を確保し、当選することができました。
とても嬉しかったですし、母の誇らしそうな顔が今でも目に焼き付いています。
朝の朝礼時に前でアナウンスをしたり、代表委員会を仕切ったり、この時の経験も今の自分の土台となっています。
もう1つの、運動会の鼓笛隊総指揮者への抜擢ですが、身長が高かったので見映えもあったのではないかと思いますが、先生から「やってみないか」と声をかけて頂いた時は、とても嬉しかったです。
これは、最初から積極的でした(笑)
後で知ったのですが、鼓笛隊の指揮者の事を「ドラムメジャー」というらしく、そのドラムメジャーが持つ杖のことを「メジャーバトン」というそうです。
このメジャーバトンがとても重くて、練習すると腕がパンパンでした。
それでも練習を重ね、運動会で無事に鼓笛隊の行進を終えた後、多くの先生や保護者の方から「素晴らしかった」「カッコ良かった」と褒めてもらったことを覚えています。
とても嬉しかったですし、周りから高評価を貰う事で、更に自信の種が増えたと思います。
中学校・高校時代
中学校でも舞台に立つ機会が増えました。
中学校は、高松市立桜町中学校。高松市内で一番のマンモス校でした。
中学2年生の時には、卒業式の在校生代表として送辞を任せられたのですが、その映像がテレビにも放映されて、家族で大騒ぎしたのを覚えています。その当時は、ビデオも普及しておらず、カセットデッキで音声だけを録音していたな~(笑)
何度も繰り返して練習したので、冒頭部分は今も覚えています。
桜の蕾も膨らみ 春の息吹が 私たちの心を沸き立たせる今日
3年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
文章を考え、いつものように父に添削してもらい、カセットテープに録音して何度も繰り返し練習しました。
保護者の皆さんや先生方に「とても良い内容だった」と褒めてもらって、自分の文章にも、人前に立つことにも自信の種を増やすことができた経験です。
マンモス校だった桜町中学校は、私たちが3年生になる時に分離し、私は新しく開校した高松市立太田中学校に通う事になりました。
そこでも、新学期スタート時に在校生代表で、宣誓のようなスピーチをした記憶があります。
誰もが「スピーチといえば小野寺さん(旧姓)」という印象を持ってくれていて、それが大きな自信となって、今の私に繋がっているな~と振り返ります。
ちなみに、中学校の卒業式では、その時PTAの副会長をしていた私の母が保護者代表で挨拶をしました
着物姿のキリリとした母が入場してくると同時に、こみ上げるものがあり、私は感動のあまり大号泣でした。
よくとおる母の声が、今でも耳に残っています。
高校生活は、素敵な仲間とともに沢山の思い出を作ることができ、今でも、高校時代の仲間とは繋がっていて、皆の活躍に元氣を貰っています。
その当時、皆とても優秀だったので、「全然勉強してない~!」と言いながら、テストで良い点数を取る仲間が多く、自分の学力に少し自信を無くした時期でもありました。
そんな中でも、母はいつも私を応援し、様々な情報にアンテナを張り、私にとってチャンスとなる経験の機会を与え続けてくれました。
高校1年生の時に応募した第12回壷井栄賞も、その1つです。
壷井栄さんは、「二十四の瞳」の作家で、壷井栄を顕彰する壷井栄顕彰会が、「壷井栄賞」を主催していました。
私の同級生が第11回壷井栄賞を受賞したのをきっかけに、その賞を知る事になり、母に応募を強く勧められました。
父やその当時の国語の先生のサポートも受け、応募したのですが、2年連続で、同じ高校から選ばれるのは難しいのではないかという不安もありました。
その中での受賞の知らせは、とても嬉しかったのを覚えています。
そして、高校2年生の6月に小豆島の壷井栄文学碑前で開催された授賞式に、母と二人で参列し、受賞の喜びを共有することができました。
母の嬉しそうな表情は、今でも鮮明に思い出すことができます。
入選した文章と、その時の父の目線での詳細は、父のブログ「翁のひとりごと」で2回に渡って掲載されていますので、是非そちらをご覧ください。
大きな賞で入賞するという、私と母の夢を叶えた瞬間でした。
本当に嬉しくて、自分の学力に少し自信を無くしかけていた私にとって、大きな自信となった出来事だったのです。
将来に対しても、大きな夢があったわけではなく、母の弟がお医者さんだったり、祖母や母が医者好きだったこともあり、何となく「お医者さんもいいな~」くらいに思っていました。
だから、3年生への進級時、文系か理系を選択する際も、「お医者さんになるなら理系だな~」ぐらいの氣持ちで理系を選択したのです。
クラスには、東大や京大、医科大を狙う生徒が多く、皆の頭の良さに圧倒されていました。
それでも、高校生活は楽しく、学園祭ではクラスのメンバーと協力して創作ダンスや創作劇に取り組み、創作劇では魔女イザベラを熱演しました。今思えば、ダンサーや俳優の道もあったのかもしれません(笑)
そして迎えた、大学受験。結局成績は伸び悩み、医者の道は絶たれたものの、薬学部なら大丈夫かもしれないと思いながら受けた共通一次試験は大撃沈。お先真っ暗な状態に陥ったのです。
その時に助けてくれたのが、やはり母でした。
一緒に、私の共通一次の点数でも合格可能な進路模索が始まったのです。
今思えば、その時初めて「自己分析」をしたのかもしれません。
- 人に何かを教える事が比較的上手だし、好き。
- 声も大きく、人前に立つことにも慣れている。
- 文章を書くのも好きだし得意。
そんな事を母と一緒に挙げていると、
「教師」という職業も合っているのでは?
という結論に至りました。
そして、教育学部を色々と探っていると、浮かび上がってきた大学があったのです。
東京学芸大学教育学部幼児教育学科。
二次試験の受験科目は「歌・ピアノ・面接」で、何と!どれも私の得意分野です!
歌は、ピンクレディーや山口百恵、松田聖子、中森明菜など、その当時のスターを真似て歌って踊るのが大好きでした。
ピアノは、エレクトーンを習っていたので、練習をすれば大丈夫そうでした。
そして、面接は、人前に立って話す経験を重ねていたおかげで、自信がありました。
ただ一つ大きな問題は、場所が東京だという事。
その当時は香川県の高松に住んでいましたので、その大学に合格すると、東京での一人暮らしになるのです。
女の子の一人暮らし、しかも東京……無理だろうなと思っていたら、何と、父と母は、それを許してくれました。
今振り返っても、感謝しかありません。
それから二次試験までの間に、母が見つけてくれた歌とピアノの先生に指導してもらい、面接は、父と母が面接官となり何度も練習しました。
そして受験。二次試験には自信がありましたが、共通一次試験も影響しますので、発表まで不安でした。
その当時は、受験結果は大学の掲示板に張り出される方式でした。結果を見る為だけに再度上京することは難しかったので、受験結果を調べて電話をくれるというサービスを利用しました。
合格であれば「サクラ咲く!」、不合格であれば「サクラ散る!」とかかってくるのです。
ドキドキしながら電話に出ると、大きな声で「サクラ咲く!」と聞こえてきて、嬉しくて母と泣きながら抱き合ったのを覚えています。
大学の二次試験をクリアしたことで、勉強に自信を無くしていた私は、プレゼンテーションスキルへの自信を高めて、上京することができたのです。
大学時代
東京学芸大学は、都心から少し離れた小金井市にあったので、最初は小金井市に住み、自転車で大学に通いました。
名前をもう忘れてしまったのですが、入口1つで8部屋ほどある女性専用のアパートに住みました。電話は、共通で使うダイアル式のピンク電話。香川県と繋ぐとなると、10円玉が沢山必要だったので、頻繁にかけることはできませんでした。
お風呂は付いていなかったので、近所の銭湯に通いました。この銭湯がとても氣持ち良くて、非常に良い感じで生活をスタートさせることができたのを覚えています。
でも、母の全力サポートを受けて過ごしてきた今までと違い、その当時仕送り9万円での東京での生活は、家賃、光熱費、書籍代、生活費と想像以上に費用がかかりました。
ゴールデンウィークを過ぎた頃から、勉強や生活に対しての不安が大きくなり、心細くなってホームシックになりかけました。
今まで、どれだけ家族の存在に助けられていたのかも痛感し、感謝の氣持ちと寂しさで心が押しつぶされそうにもなりました。
そんな私を心配して、母はよく荷物を送ってくれました。その中には、日持ちする食品や、洋裁の得意だった母手作りの洋服、香川の名産である讃岐うどんやしょうゆ豆が大量に入っていて、本当に助けられました。
そして、必ず達筆な母直筆の手紙も添えられていて、わんわん泣きながら読んだことも思い出されます。
両親からの愛情を感じ、感謝の氣持ちを強く抱きながら、少しずつ自立できたのだと思います。
それと同時に、私を助けてくれたのが、入部したテニスサークル「ダブルフォルト」の仲間や先輩だったのです。
あっ、そうそう、最初は入口1つで8部屋ほどある女性専用のアパートでしたが、その後国分寺市に引っ越し、6畳1間のお風呂付アパート “ジュネス清和” で東京生活が続きました。
さっちん先輩、としちゃん先輩、すぎちゃん先輩、さやか先輩、長老先輩、りゅうさく先輩、岩田さん……懐かしすぎます!!
その当時3年生だった先輩が立ち上げたサークルで、テニスだけではなく、冬はスキーでも鍛える(?)との事で、先輩方がとても楽しそうな雰囲氣で話しやすかったので、即決で入部しました。
この決断は大正解でした!!
私自身のコミュニケーションスキルが向上したのは、この「ダブルフォルト」での先輩や仲間との関わり、様々な経験のおかげと言っても過言ではありません。
テニスも勿論真面目に練習しましたし、指導の上手な先輩がおられたので、自分が上達している事も感じながら、様々な大会にも出場しました。私と同じように背が高く、テニスの上手な同級生、圭子の存在も大きかったです。
お互いに切磋琢磨しながら、テニスの腕を磨き、一緒にダブルスの試合にも出場しました。
春、夏、秋の長い休みの時期には、河口湖や山中湖でテニス合宿!冬は、スキーの上手な先輩が多かったので、スキー合宿に参加してスキーデビューも果たしました。
そりゃもう、楽しくて仕方ありませんでした!
でもそれと同時にお金もかかるので、パン屋さん、ベビーシッター、家庭教師など様々なアルバイトも経験しました。
結果的に、その経験も私のコミュニケーションスキル向上に影響したのは間違いありません。
そうそう、テニス雑誌のモデルも経験したのです!
パン屋さん・ベビーシッター・家庭教師が主だったのですが、テニス三昧だったご縁もあり、学研のテニス雑誌「T.Tennis」の読者モデルも経験したのです。
サークルで知り合った同級生の圭子と一緒に、様々なウエアを着用して、テニスコートで撮影したり、ロケで軽井沢まで行ったこともありました。
素敵なウエアを着用すると、やはり氣持ちがあがります!
圭子と私は身長が168cmあったので、「何を着ても似合う~!!」と褒めてもらって、恥ずかしがらずにモデル風にポーズをとることもできるようになり、表現や見た目の自信の種が少し増えた経験だったと思い出します。
褒められると自信の種が増えますよね!
テニスウエアにも目覚め、圭子と色違いでお揃いのウエアを購入したこともあったな~(笑)
まさに、今流行りの “双子コーデ” 先取りでした!
結婚してからは、すっかりテニスから離れてしまったのですが……
何と、2022年8月頃、我が家の長男みっちゅくんが、突然「テニスを習いたい!」と言い出したのです。
もともと、父ちゃんと一緒に4歳から空手を習っているのですが、私の好きなテニスに興味を持ってくれたことが、とても嬉しかったです。
そこで私はすぐに、テニススクールをGoogle検索しました。
検索上位にあがってきたのは、 “奈良で本氣でテニスをするならエールテニスアカデミー” という、テニススクールでした。
そのスクールには保育園時代のお友達も通っていて、今なら無料体験レッスン&入学金免除だよと教えてくれたので、早速体験に!
体験することで習いたい氣持ちが強くなったみっちゅくんは、2022年9月から通い始めました。
2023年3月に東大阪市で開催された試合を応援しに行った時に、コーチから「福田君は、本当に楽しそうにプレーするな~!素晴らしいよ!」と褒められ、2022年9月から習い始めた事を伝えると、「まだ始めたばかりとは思えない!絶対上手くなるよ!」と言われて、みっちゅくんはとても嬉しそうでした。私も本当に嬉しかったです!
褒められて自信の種が増えたみっちゅくんは、自ら家の前で練習する機会も増え、益々楽しくなっている様子です。
そんな姿を見ていると、私もテニスに夢中になっていた頃の自分を思い出し、またプレーしたくなりました。
2023年は、50代なりのテニスウエアに身を包み、テニスコートでみっちゅくんとラリーする機会が訪れるかもしれません!
社会人①・20代~
丁度これからIT化が加速すると言われていた時代でしたので、新しい技術に興味を抱いた私は、銀行系のシステム会社に就職したのです。
同じ大学の先輩が、人事部で女性課長として活躍されているというのも決め手でした。
1990年に入社すると、3か月の集合研修で、徹底的にITスキルの基礎を身に付けました。その教育を担当していたのは、人事部研修課という、女性課長が率いる、5名の社内講師の方々だったのです。全員女性でした。
アルゴリズムを学習した後、プログラミング言語はCOBOLとRPGを学びました。厳しくも愛のあるご指導を頂き、とても分かりやすかったのを覚えています。
3か月の研修では同期とも交流を深め、とても仲良くなることができました。
研修が終わり、いよいよ配属先発表!!
システム開発課、システム推進課……
一体どこに配属されるのかとワクワクドキドキだったのですが、私の名前を呼ばれて告げられた配属先は、何と「人事部研修課」だったのです。
そう、3か月の集合研修を担当してくれた、女性課長率いる、女性講師5名が所属する部署でした。
教育学部卒という事もあったと思うのですが、「小野寺さんなら絶対できると思って、引き抜いたのよ!」と言って頂いた事がとても嬉しかったな~。
配属されてから、その当時、情報処理試験の受験を会社が推奨していたこともあり、社員向けの夜間講習に登壇して経験を重ね、翌年の4月には、1年前に自分が受けていた新入社員研修に登壇していました。
今思えば、ここから、私の講師としての道が繋がっていたのです。
「娘を大阪支店に転勤させて欲しい」という直談判の手紙が届いたというのです。
課長に呼び出されて、その事実を知りました。
実は、東京での就職を決める際、両親を説得するために「大阪支店」の存在を伝え、「3年くらい経験を積んだら、大阪支店に転勤できるから」というような事を宣言していたのです。
東京での生活が楽しくて仕方なかった私は、当然、戻るつもりもなく、色々と理由を付けて先延ばしにしていました。
いつまでたっても戻ってくる様子のない娘に不安を感じた母が、とうとう具体的に動き出した瞬間でした。
「結婚したら、家を出ていくんだから、せめてそれまでは一緒に生活をしたい!東京での女性の一人暮らしは心配!」
両親の思いも理解できる……
でも、私は東京で社内講師として新入社員研修や社員教育に携わりたいと、強く思っていました。
両親とも話し合い、仲間に相談もし、何度も涙を流しました。
最終的にはやはり両親(特に母)の思いには勝てず、大阪支店への転勤希望を自ら出しました。
そして、1992年12月に大阪支店へと転勤となり、今の大阪の実家に戻りました。
転勤を希望してその通りに叶えてくれるなんて、今となっては「何て恵まれていたのだろう」と感謝の氣持ちが湧いてきます。
大阪支店には、同期の仲間が沢山居ました。そして、皆さんがとても快く受け入れてくれました。
だから、私も氣持ちを切り替え、新しい知識の習得にワクワクしながら取り組む事ができました。
その時上司だった高瀬伸一課長が、新しい技術に対して積極的にアンテナを貼っている方だったので、パソコンを使ったシステム開発にも携わる事ができたのです。
Windows95でAccessを使ったシステム開発を経験することで、ITスキルの基礎が身に付きました。
私が講師として大学での情報リテラシーの授業を担当できたり、Word・Excel・PowerPoint・Accessなどの資格対策講座や、パソコンの研修を担当できるのも、この時に基礎を身に付けられたおかげでもあります。
母の思いに勝てず、大阪支店への転勤を決意した事で得られたこれらの経験を振り返ると……
「東京から離れたくない!」
「仲良くなった、沢山の仲間とまだまだ一緒に居たい!」
そんな思いを抱いて毎晩大泣きしていた、その当時の私に伝えたいです!
「母の思いを受け入れる事で、あなたに幸運が引き寄せられるからね~!!」と。
人生には、自分の思い通りに進まない思いもよらない出来事も数多く訪れますが、それを受け入れ、氣持ちを切り替えて前に進むことで得られる成長もある。
自分自身の過去を振返ることで、改めて意識することができました。
それは、阪神・淡路大震災です。
「人生何が起こるかわからない」「一寸先は闇」であるという事実を叩きつけられた経験でした。
震災の直前、母、妹、私の3人で初めてのハワイ旅行を楽しみ、帰国したばかりでした。
オアフ島を往復する飛行機が、驚くほど揺れたのですが、その揺れを体がまだ覚えている状態で起こったのが震災だったので、最初、「私たちはまだハワイに居る」と錯覚したくらいです。
母も咄嗟に「お父さん、ここは日本よね?」と口にしたと、後から聞きました。
実家の自分の部屋で寝ていた私は、経験した事のない揺れに動揺し、「おかあさ~ん!おかあさ~ん!」と叫んでいました。
パイプハンガーにかけていた洋服が、私の身体に覆いかぶさり、もがきながら脱出しました。
そして、リビングに向かうと、食器棚の食器が少し壊れていた程度で、タンスや食器棚は倒れていませんでした。
父が、しっかりと地震対策をしていたおかげでした。
何とか落ちていたものを片付け、テレビを付けると、目を疑うような光景が飛び込んできました。
阪神高速がドミノ倒しのように倒壊している映像でした。
何が起こったのかわからず、心の底から動揺しましたが、「人生何が起こるかわからない」のだと、強く強く感じた瞬間でした。
あれから、28年。南海トラフ巨大地震への心配も増えている今、改めて、人生何が起こるかわからないこと、だからこそ、今を楽しみながら生き抜く事の大切さを意識し、ハピネスキャリアのために必要な行動を重ねたいと思います。
社会人②・30代~
見た目は茶髪でサングラス(笑)と厳つい雰囲氣でしたが、笑顔が爽やかで、とても優しかったので、出会った時から「あっ、この人と結婚するかも!」という印象があり、すぐに付き合い始めました。
私は一度離婚を経験していましたが、再婚して幸せになることを期待していた両親はきっと喜んでくれると思い報告すると、母の反応は意外なものでした。
「まこちゃんには、まだきっと良い出会いがあるよ!」
「えっ、喜んでくれないんや……」
主人の実家は両親2人が理容師で、奈良で「ハレルヤ」という理容室を経営していました。
主人も高校卒業後、理容師として仕事をしていたのですが、様々な転機があり、その当時は叔父さんが経営する建築会社で働いていました。
私に対しての期待が大きい母にとって、その当時、主人は理想の相手ではなかったのです。
両親と話し合いを重ねましたが、全く受け入れてもらえませんでした。母に寄り添う父も、考えは母と同じでした。
でも、その時の私の氣持ちは、母の強い願いで東京から大阪に戻る事を受け入れた時とは違いました。
「絶対に、この人と一緒になる!」という思いが強く、どうしても前に進みたくて大好きな妹や支えてくれる仲間、何より主人のサポートを支えに “福田 雅子” になる決断をしました。
それが、主人と出会ってから1年後の2003年8月17日。休日でしたが、奈良市役所の休日受付の窓口に婚姻届けを提出しました。
私にとっては、これが両親からの本当の自立でした。
全く迷いはありませんでした。
勇氣を振り絞って出した決断の4か月後、長女のなっちゅネエネを妊娠していることがわかり、そのことをきっかけに、両親にも私の氣持ちに寄り添って貰えるようになりました。
その後は両親にも全力で応援して貰い、妊娠6か月の安定期に入った私の誕生日でもある2004年5月8日に、結婚式を挙げることもできました。
あの時、自分の氣持ちを信じて決断をしなければ、長女のなっちゅネエネと長男のみっちゅくんの親になることもできなかったでしょうし、奈良に住んでハピネスキャリアコンサルタントを名乗っている私も居なかったかもしれません。
両親からの本当の自立は、私一人の力ではできませんでした。大きな決断をするときには周りにも目を向け、手を差し伸べてくれる人の力も借りる意識が必要だと、今改めて思います。
長女のなっちゅネエネと長男のみっちゅくんの成長を心から応援してくれた母は、今は天国から見守ってくれています。
それは、今、私の心の支えにもなっています。
妊娠が分かった時、嬉しい氣持ちと信じられない氣持ちで、心が躍りました。
当時、プルデンシャル生命でライフプランナーとして仕事をしていた私は、東京への出張も多くなっていました。
東京からの出張帰りの電車で急に氣分が悪くなり、立っていることができないほどでした。
それが、恐ろしい悪阻の始まりでした。
私の悪阻は食べることができなくなるもので、水しか飲めず、一氣に体重が5kg減りました。
私の健康状態が悪くなったため、出産を予定していた国立病院機構大阪医療センターに1週間入院となりました。
入院しても悪阻が治まるわけではなく、何も食べることができない点滴生活。そんな中でも、毎日のエコー検査でお腹の中のなっちゅネエネの成長を見ることができたので、何とか辛さを乗り越えられました。
悪阻が治まってからはとても順調だったので、妊娠6か月の私の誕生日2004年5月8日に結婚式を挙げることもできました。
おしるしがあったのが、2004年9月4日(土)の夜でした。
陣痛も始まったので、父ちゃん(家族はみんな主人をこう呼んでいます)と一緒にタクシーで病院に向かいました。
長くても1日くらいで、なっちゅネエネに会えると思っていました。
病室は、陣痛から分娩後まで付き添い可能なLDRを予約していたので、立ち合い出産の為、父ちゃんはビデオをバッチリ準備して万全の体制でした。
ところが、強い陣痛は来るのですが子宮口が全く開かず、痛みに耐える長い時間が始まりました。
微弱陣痛ではなく強い陣痛だったので、あまりの痛さに耐えきれず、看護師さんや先生に「助けてください!」と何度も懇願したことを覚えています。
個人病院だったらすぐに帝王切開になっていたと思うのですが、大きな病院でバックアップ体制も万全だったこともあり、自然分娩が最優先でした。
私の体力も、大丈夫だと思われたのでしょうね。凄く、凄く痛かったのですが(笑)
帝王切開にはならず、代わりに痛みを緩和する為の “硬膜外麻酔” を打つ処置をしてもらいました。
痛みが緩和されるのは一時的、しかもどんどん陣痛は強くなるので、麻酔が聞いている時間も短くなって、麻酔の回数も増えていきました。
その間に、9月5日(日)に大阪でも震度4を記録した “紀伊半島南東沖地震” が発生したり、 “台風18号” も大阪を通過。電車も止まってしまったのですが、その時は妹のタカタカと父ちゃんが付き添ってくれました。
いよいよ子宮口も開き痛みが最大になった時、主治医の平野先生と麻酔担当の山田先生が二人で登場!
スタンバイしていた父ちゃんと妹は外に出るよう促され、2人がかりでの『吸引』と、私のお腹を強く押すことで出産を促す『児圧出』により、ようやくなっちゅネエネが出てきてくれたのです。
なっちゅネエネの顔を見た瞬間、それまでの痛みも吹き飛び「やっと会えた、ありがとう、ありがとう!」と大号泣したのを覚えています。
勿論、父ちゃんも妹のタカタカも大号泣でした。
壮絶な出産だったこともあり、産後に痛みもまた壮絶でした。
でも、生まれたばかりのなっちゅネエネを抱っこしてオッパイをあげていると、不思議と痛みが和らぐのです。
自分の命よりも大切な存在というのはこういうことか~と、体の奥底から湧き上がってくる氣持ちを感じながら、親としての責任も自覚した出来事でした。
なっちゅネエネが「産婦人科の医者になりたい!」といった小学校・中学校時代、中学の時「青柳助産院」で職場体験をした後から「私がやりたいのは出産前後の妊婦さんや赤ちゃんに寄り添うこと!」と、助産師になる夢を抱くきっかけになったのは、私の壮絶な出産の記憶を小さい時から聞いていたからかもしれません。
2023年春、自分の命よりも大切な存在である長女のなっちゅネエネは、 “助産師になって妊婦さんや赤ちゃんに寄り添う” という夢に向かって歩き出しています。
そんな中での妊娠だったので、最初は戸惑いもありました。
でも、その当時お世話になっていた、私の尊敬する間原支社長が「育児休業を一年間しっかり取得している間に、自分の働き方を考えるのもいいんじゃない!」と応援してくれたおかげで、育児休業中に色々と考えることができました。
なっちゅネエネは、完全母乳でスクスクと成長し、本当に可愛かったです。2人で過ごす時間は貴重で、少しずつ “母” になっていく自分を実感できました。
でもそれと同時に、「私は、やっぱり仕事をしていたい!仕事をすることで、イキイキできる!」という思いが強くなりました。
「それは、ライフプランナーという仕事で実現できる?」と自分に問いかけると、不安や心配な事が多く出てきました。
- ライフプランナーの仕事は、夜や土日がメインになる
- 保育園に預けても、夜や土日は父ちゃんや義父、義母のお世話になる必要がある
- 出張も多くなるかもしれない
- じゃあ、ライフプランナー以外に私が出来る仕事があるのか
- 子供がまだ小さいこの時期に転職できるのか
考えてもなかなか答えがハッキリと出ないまま、一年間の育児休業期間の終わりが近づいてきました。
兎に角、仕事をするのであれば、なっちゅネエネを保育園に預ける必要がある。だから、まずは動かなければと、保育園の申込手続きをしました。
9月入所の場合、入所できるかどうかの結論が出るのは、8月の中旬のお盆明け頃になると言われました。入れるかどうかも、微妙だと……
そしてまた、考えました。
父ちゃんや私の実家の家族にも相談し、私が最終的に出した結論は、
「まだ小さななっちゅネエネの子育てをしながら、ライフプランナーの仕事を続けるのは難しい。」
というものでした。
当時の支社長にその氣持ちを伝えると、「その決断は、正しいと思う。」と応援して頂けました。本当に有難いと、感謝の氣持ちで一杯になったことを覚えています。
結局、2005年7月末に、プルデンシャル生命を退職しました。
でも、何とか動き出したいという氣持ちから、すぐに派遣会社に登録に行きました。
それが、近鉄奈良駅近くにあったパソナです。
Excelの簡単な操作チェックやタイピングもあったと記憶しています。得意分野だったので、安心して取り組めました。
そして、その日その場で、自宅から車で10分ほどの所にあるダイワハウスの子会社での仕事を紹介されました。
すぐに紹介して貰えた事にも驚きましたが、自宅から通えて仕事の内容も今までの経験を活かしてできるものだったので、期間は2006年の5月まででしたが、やりたいという氣持ちが湧いてきました。
帰宅後家族に相談し、その当時同居していた義父と義母にもサポートして貰える事になり、2005年9月からその仕事を受ける決断をしました。
すると、市役所から「9月から保育園の入所が可能になった!」と連絡があり、なっちゅネエネは、2005年9月から保育園に通える事になったのです。
仕事が始まってからは、ワークと子育てのバランスがやはり大変でした。
ついつい頑張ってしまう性格の私は体や心の悲鳴に氣付けず、2006年を迎えた頃、仕事中に強いめまいで動けなくなりました。
暫くすると落ち着くのですが、その後、何度も同じ状態を経験し、病院を受診しました。
そこで診断されたのが、 “メニュエル病” でした。
先生に原因を聞くと一言「原因はストレスです!」と。
自分では、ストレスを感じている実感がありませんでした。でも、自分の生活を見直してみると、頑張りすぎている自分に氣付くことができました。
何でも自分一人で頑張ろうと思わず、父ちゃんや周りの家族にも助けて貰わないとダメなんだと、自分の意識と行動を改めました。
その後、何度か症状は出ましたが、いつの間にか治まっていました。
ワークと子育てのバランスは、“頑張りすぎずに、周りのサポートも受ける” ことで保てることを学んだ経験でした。
ここで学んだ経験は、私自身のハピネスキャリアに活かされています。
また、ハピネスキャリアコンサルタントとして、世の中を“キラビト”で一杯にする!ための活動にも活かされています。
その後、2006年5月で派遣会社の仕事を無事に終え、2006年6月から私の講師としての活動がスタートしたのです。
社会人③・40代~
近鉄大和西大寺駅近くにある、永井学園という専門学校では、その当時職業訓練の事業も請け負っておられました。
その永井学園で2006年6月1日~8月29日までの3か月間、 “ビジネス実践科” という20名のクラスを、私が担当することになったのです。
20代から60代までの幅広い年代の求職者の方が対象でした。
訓練内容は……
- ビジネス一般知識
- 接遇
- Windows基礎
- パソコン概論
- ワープロソフト(Word)
- 表計算ソフト(Excel)
- プレゼンテーション(PowerPoint)
- 通信機能
- ネットワーク
と多岐に渡り、総訓練時間は349時間でした。
コンテンツ作成や準備が本当に大変でしたが、自分の好きで得意な仕事でしたので、とても楽しかったです。
20名の受講者の皆さんとも家族のように仲良くなれ、今でも年賀状でのやり取りが続いている方が多く、とても懐かしいです。
永井学園での職業訓練は、その後も継続して担当させて頂いたのですが、有難い事にそれ以外の大学・専門学校・企業向けの案件も増えてきました。
そして、氣が付くと “ヒューマンスキルアップ” “情報活用力育成” “講師育成” など担当できるコンテンツも増え、講師としての登壇経験が私自身の “ワーク” に対する自信となっていきました。
ただ、プライベートでは……
2004年9月になっちゅネエネを出産後、2007年の1月と9月に2度の流産……。
一度目は自然流産だったのですが、二度目は稽留流産(胎芽が子宮内に留まってしまう)となり、全身麻酔による手術を経験しました。
仕事は楽しくてどんなに大変でも乗り越えられたのですが、当初3人は子供を授かりたいと願っていた私にとってはとても辛い経験となり、ワークと子宝の間で悩むこととなりました。
そして、氣がつくと41歳。
やはり、 “ワークもライフも充実していなければ、幸せな人生とは言えない” と考えた私は、父ちゃんとも相談し、仕事のペースを少し減らした上で、妊活に励むことにしたのです。
それが、2009年の春でした。
5月になれば42歳です。
長女のなっちゅネエネを出産したのも37歳で高齢出産でしたが、42歳で妊娠するとなると、超高齢出産となります。
あまり時間が無いと考えた私たち夫婦は、婦人科を受診しました。
2人とも特に異常はなく、私の年齢による卵子の老化が一番の原因だと言われました。
その時にお世話になった大和西大寺駅前のサンワシティ西大寺にある久永婦人科クリニックの院長先生は、「女性は35歳を過ぎると、3か月毎に卵子が老化するんです。」とおっしゃいました。
とても驚き、そんな事あまり考えていなかったけれど、それが現実なのだと受け止めました。
そして、不妊治療に挑戦することを決断したのです。
私たち夫婦は体外受精までは考えていなかったので、次の2つのステップまでと決めていました。
Step1:タイミング療法
注射で卵胞を大きくし、排卵日を予測してタイミングを合わせます。
Step2:人口受精
排卵のタイミングに合わせて精子を人工的に子宮内に送り自然な妊娠を期待します。
私は、Step1できっと上手くいくはずだと、期待していました。
ところが……
毎月痛い筋肉注射に耐え頑張ったのですが、Step1では結果が出ず、年齢の事も考えて通常よりは早くStep2へ進みました。
人工授精は4回頑張りましたが、これも結果がでず……
2010年の8月で、一旦不妊治療を休む事にしました。
病院に通うのは止めましたが、やはり、なっちゅネエネにはお姉ちゃんになってもらいたいという強い思いから、妊活だけは続けました。
それでもなかなか結果はでず、自然妊娠はもう難しいのかもしれないと思い始めていました。
そんな日々の中、2011年3月11日、東日本大震災が日本を襲いました。なっちゅネエネが保育園を卒業する数日前の出来事でした。
世の中が悲しみに暮れた2011年の春は、命の尊さを改めて感じる機会となり、少し弱氣になっていた氣持ちを奮い立たせて、妊活は続けました。
毎朝基礎体温を測り、排卵のタイミングを確認して頑張ったのですが、妊娠検査薬には全く反応が出ず……
その時の私は、妊娠検査薬中毒になっていたように思います。
妊娠検査薬を透かしてみたり、何度も計測してみたり……
そんな事を繰り返していた2011年8月、私は両親・妹のタカタカ・なっちゅネエネと一緒に有馬温泉を訪れていました。
宿で迎えた朝、いつものように基礎体温を測っていた私に向かって、妹のタカタカが語り掛けました。
「お姉ちゃん、もうそんなに頑張らなくていいんじゃない?お姉ちゃん夫婦には、スクスク育ってくれているなっちゅが居るし、なっちゅは一人っ子でも大丈夫やって!」と。
思わず涙が溢れ出て、「そうだよね、もう44歳やし……。今月妊娠検査薬で検査して結果が出なかったら、基礎体温計測するのも止めるわ。」と言いました。
ここまで諦めずに頑張って授からないってことは、もう難しいってことだよなと自分でも納得し、妹の言葉のおかげで妙に氣持ちが軽くなったのを覚えています。
そして、これが最後だと思って検査した8月末の妊娠検査薬……
何と、何と、クッキリ、ハッキリ反応が出たのです!!!!!
本当にビックリして何度も見直し、泣きながら父ちゃんと妹のタカタカに連絡したな~。
44歳で自然妊娠できるなんて、信じられない奇跡だと思いました。
でも、それと同時に “諦めない氣持ちが幸運を引き寄せる” ことに繋がることもあるのだと、強く実感することができました。
出産予定日は、2012年4月27日。
この日から、44歳11か月で超高齢出産をすることとなる妊娠生活がスタートしたのです。
これまでの2度の流産では心音が確認できなかったので、安堵の氣持ちと嬉しさで、涙が溢れ出ました。
院長の清塚先生は、顎髭を生やされていて笑顔が素敵なとても安心感のある先生でした。
“きよ女性クリニック”は出産ができる病院ではなかったのですが、連携している “高山クリニック” での出産が可能でした。
小学校1年生のなっちゅネエネも居るので里帰り出産はせず、妊婦検診は、“きよ女性クリニック”の清塚先生にお世話になり、“高山クリニック” で出産することに決めました。
そんな中、早速訪れたのが、なっちゅネエネの時と同じ重い悪阻でした。
あっという間に、体重が5kg減少……
またしても水しか飲めない状態となりました。
8年前のなっちゅネエネの時と違うのは、私が44歳という妊婦としてはかなり高齢であることです。だから、8年前よりもきつかったです。
ヘロヘロになりながら、何とかこの辛い時期を乗り越えようと必死でしたが、体力に限界がきて1週間の入院となりました。
そんな時心の支えとなったのが、私が担当していた職業訓練校の生徒さんとして出会い仲良くなった里枝ちゃんの存在です。
同じ時期に里枝ちゃんも妊娠が判明し、出産予定日も4月と同じでした。里枝ちゃんは12年ぶりの妊娠で、私よりは若かったですが40歳を超えていました。
そして、同じように悪阻で苦しんでいて入院している事を知り、互いに励まし合いながら乗り切りました。
更に、高校時代に仲良くしていた同級生のこばから、とても久しぶりに連絡を貰うと、何とこばも自然妊娠し、私より少し早く2月に出産予定だと知りました。同じく仲良くしていた、テニス部で一緒だったあみちゃんも、2011年の4月に元氣な男の子を出産したという嬉しい情報を、こばから聞くことができ、心躍りました。
40歳を超えて母になる、高齢出産のパイオニアが、私の身近に三人も居るということが奇跡だと感じ、本当に嬉しかったです。
こばは、その後2012年1月末に女の子を無事に出産。
里枝ちゃんも4月初旬に女の子を無事に出産。
私は、4月27日に帝王切開で、4,192gの男の子、長男みっちゅくんを無事に出産。
高齢出産のパイオニアは、みんな、頑張りました!
なっちゅネエネの時は、分娩時間70時間29分と恐ろしく長かったですが、長男みっちゅくんは帝王切開だったので、20分ほどでの出産でした。
ところがこの帝王切開が、痛くて痛くて……
麻酔の利きが悪く、「痛い~!!痛い~!!」と大声で叫びながらの出産となりました。
産後も、切ったお腹の痛みがなかなか治まらず、体の衰えを感じましたが、出産後すぐに誕生日を迎え45歳となった私は、 間違いなく “45歳でオッパイをあげている高齢出産のパイオニア” でした。
社会人④・50代~
朝6時台の2分ほどのコーナーで、“自分の得意なこと、好きなことにひたむきに取り組む、全国のキラキラ輝く人を発掘して紹介する!” というものでした。
幼い子供から90代の高齢の方まで、年齢を問わずキラキラ輝いている姿を見て、朝から元氣を貰っていました。
そして、「人は、自分の得意なことや好きなことにひたむきに取り組むと、みんなキラキラ輝けるんだ!」と改めて意識するきっかけとなりました。
丁度そんな時期に、私が所属する大規模高校同窓会の “関西玉翠会” で、毎年実施されている総会の幹事を、昭和61年卒の私たちの代が担当することになったのです。
私は、父の転勤で小学校6年生の3学期から香川県の高松市に住んでいました。そして、高校は香川県立高松高等学校を卒業しました。通称は、高高(たかこう)です。その高校の関西での大規模同窓会が、 “関西玉翠会” です。
毎年300人近くの、様々な年代の同窓生が集まり、親睦を深める“関西玉翠会総会” は、50歳になる年に幹事を担当することになっていました。
私たちは、2017年10月21日の開催に向けて、一年前から関西近郊に住む同級生約20名が集まって準備を進めました。
ザ・リッツカールトン・大阪で開催することを決め、私が総合司会を務めることとなりました。
会場となるホテルとのやり取り、案内の送付、会報の作成、懇親会の内容検討、お土産の手配など、仕事をしながらの準備ですので、本当に大変でしたが、仲間との絆を更に深めることもできました。
何より凄いと感じたのは、それぞれの得意分野を活かして活動ができたことです。まさに、 集まった同級生は “キラビト” だらけだったのです!
「私たちの年代だけでも、こんなに “キラビト” が沢山いるという事は、関西玉翠会の皆さんは “キラビト” だらけに違いない!」
そこで、『高高(たかこう)キラビトを探せ!』というコーナーを設け、様々な年代の高高キラビトを私たちが発掘して、紹介することにしたのです。
- ハイスクールキラビト(現役高校生)1名
- キャンパスキラビト(大学生)2名
- フレッシュマンキラビト(20代)1名
- ミドルキラビト(40代)2名
- アクティブキラビト(50代)1名
- シニアキラビト(60代)2名
総勢9名の先輩後輩に直接お会いして、高校時代・現在の輝いている瞬間・未来に向けての目標 について取材をしました。
お話を聞くだけで、取材に行った私たちも刺激を受け氣愛が入りました。
そしてそれを会報に掲載し、当日は、取材動画も披露しながら、私が紹介しました。
総会にご参加頂いた高高キラビトには、その場でご登壇頂きお話も聞かせて頂きました。
結果は、大変好評で、ご参加頂いた300名以上の皆様にも喜んで頂けました。
年に一度の関西玉翠会総会。
母校である高松高校に思いを馳せ、キラキラ輝く仲間とこうやって集う事で、氣持ちを新たに、輝くきっかけをお互いにもらっているんだ。
ザ・リッツカールトン大阪に集まった300名以上の関西玉翠会の “キラビト” に囲まれ、その時強く感じた思いでした。
まさに、“キラビト”一杯!
幸せな瞬間でした。
そして、この経験は、氣愛塾の「世の中を“キラビト”で一杯にする!」という理念にも繋がったのです。
その日、私は寝屋川の大学でのITパスポート試験資格対策講座に登壇していました。
16時30分から19時20分までの講座が終了し、バス停で寝屋川駅までのバスを待っていました。とても寒い日でした。
自宅のある最寄り駅に到着する時刻を確認するためスマホを取り出すと、妹から着信がありました。
普段はこんな時間に電話をかけてくることはないので、一瞬心がざわついたのを覚えています。
恐る恐る電話に出ると、静かな涙声で、
「お姉ちゃん、お母さんが危篤やねん。今からすぐにこれる?」
と、聞こえてきました。
実は、そこからの記憶があまりありません。
兎に角、母に会いに行かなければと、検索の経路を母が入院する病院に変え……
「お母さん、お母さん、お母さん……」
心の中でずっと呼び続けながら、病院に向かいました。
目からは涙が溢れていたと思いますが、人の目は全く氣になりませんでした。
時間外の窓口で守衛さんに、
「母が危篤の連絡をもらったので……小野寺です」
と伝えると、母がいる階を案内してくれました。
そして、病室に辿り着くと、妹が母の身体をさすりながら、
「お母さん、お姉ちゃんが来てくれたよぉ……」
「お姉ちゃん、お母さんが天国に行っちゃったよ……」
そんな風に伝えられたように記憶しています。
実は、妹から電話をもらった時に、母はもう天国に旅立っていて、最期の時には間に合いませんでした。
母のもとにかけつけるまでに私が取り乱さないよう、妹が心配りをしてくれていたのです。
その後、私の口から出た言葉は、
「お母さん、お母さん、お母さん……ありがとう、お母さん、ありがとう……」
という感謝の言葉だったことは、ハッキリと覚えています。
そして、まだ温かい母の……
うっすら笑顔を浮かべているような顔をさすりながら、号泣しました。
感謝の涙、悲しみの涙、寂しさの涙……色んな思いが入り交じって、その日から暫く心は揺れました。
ずっと続けていた「3つのよいこと」もお休みしました。
厳しい母でした。
愛情深い母でした。
料理上手の母でした。
花を愛する母でした。
太陽のような母でした。
よく声の通る母でした。
笑顔が素敵な母でした。
孫の成長を全力で応援してくれる母でした。
父の事を心から愛する母でした。
そして……
私が心から尊敬する偉大な母でした。
母は、私と妹が居る場での父との会話の中で、何度も私たちに自分の思いを伝えてくれていました。
「お父さん、2人の子供たちも立派に成長し、幸せに暮らしてくれている、孫たちも元氣に育っていて、もう、な~んにも思い残すことないわ。ほんま、いい人生やった。だから、いつ天国に行ってもいい。ねえ、お父さん。」
この会話を聞くたびに「そんな事言わんといて、まだまだ長生きしてや!」と言いながら、こんな風に言える人生って素晴らしいし羨ましいと、いつも思っていました。
そんな思いを繰り返し伝えてくれていたことで、揺れる思いを徐々に整えることができ、整えながら、
幸せな人生=ハピネスキャリア
を意識するようになりました。
そして、氣愛塾が行う活動すべてのことを “ハピネスキャリアプロジェクト” と称するきっかけとなりました。
“ハピネスキャリアプロジェクト” については “ハピネスキャリアプロジェクトとは” に、母への思いとともに掲載していますので、是非ご覧ください。
揺れる思いを整えてからは「母のような人生にする!」を強く意識し、それまで以上に氣愛を込めて生きています!
母が天国で見守ってくれていることを感じつつ……
そう、私自身のハピネスキャリアは、まだまだこれからです!
その頃の私は、大学の資格対策講座への登壇がメインでした。
- MOS試験(Word・Excel・Access)
- コミュニケーション検定上級試験
- ITパスポート試験
全て対面での講座でした。
3月上旬までは感染対策を施すことで開催できていたのですが、3月中旬には国内での感染拡大が深刻となり、突然、予定されていた資格対策講座が全て中止となりました。
それに加え、4月からスタート予定だった大学のキャリアデザイン授業・企業向けの新入社員研修など、全ての講座・授業・研修が中止となったのです。
つまり、4月以降の登壇機会が中止又は期間未定の延期……。
愕然としました。
私は個人事業主なので、登壇機会が無くなるということは、収入がゼロになるということです。
実際、4月の収入はゼロでした。
先が見えず焦りましたし、これから先講師を続けていけるのだろうかと不安にもなりました。
でも……
「講師という職業は、私の得意を活かして輝ける天職!諦めるわけにはいかない!」
私は、自分の思いをそう確認し、動き始めました。
- 講師仲間とZoomについての勉強会実施
- オンライン講座の作り方講座受講
- 協力会社とのWeb勉強会参加
そうです、オンラインで講座・授業・研修を行うための準備をスタートさせたのです。
そのおかげで、5月11日からスタートとなった大学のオンライン授業にもスムーズに対応することができました。
Zoomのブレイクアウトセッション機能を使ったグループワークも実施できたので、オンライン上でもしっかりとコミュニケーションをとることができました。
学生からは、
「大学のほとんどの授業は、オンデマンド(収録した授業動画の視聴)や、全員画面をオフにして先生が一方的に話している授業だけど、雅子先生のキャリアデザイン授業は、画面を全員オンにしてブレイクアウトセッションで他の学生と話ができるので、楽しいし有難い!」
と言って貰えました。
あの時、すぐにオンライン対策を行っていて良かったと痛感しました。
その後、企業研修もオンラインで復活し、現在は、対面・オンライン・ハイブリッド(対面とオンラインを同時に実施)と、どんな方法でも登壇できています。
コロナ禍の中、私の身に起こった逆境をネガティブに捉えず、前を向いてポジティブに行動した事で、以前より成長した自分を感じることができました。
コロナ禍をプラスにすることができた自分自身の行動と、一緒に前を向いてくれた仲間に感謝です!
「雅子のパーソナルヒストリー」ご覧いただき、ありがとうございました。
各年代のエピソードについての詳細なストーリーを書くことで、私は改めて様々な氣付きを得て、今後の行動のきっかけとなりました。
現在、50代を更新中!まだまだこれからも続けます!
自分の人生を “ハピネスキャリア” にするためには、自己分析が欠かせません。
自己分析をする際の1つの手法として、「パーソナルヒストリー」はお薦めですよ!
保有資格
- 国家資格キャリアコンサルタント
- 日本キャリア開発協会(JCDA)認定
- CDA(キャリア・デベロップメント・アドバイザー)
- 一般社団法人日本アンガーマネジメント協会認定
- アンガーマネジメントファシリテーター®
- アンガーマネジメントアドバイザー®
- アンガーマネジメント叱り方トレーナー®
- アンガーマネジメントティーンインストラクタートレーナー®
- 一般社団法人日本レジリエンスエデュケーション協会認定
- レジリエンストレーナー
- キャリアトランプ®ファシリテーター資格認定
- キャリアトランプ®メンタリング資格認定
- キャリアトランプ®ダイバーシティ・ナビゲーター資格認定
- 秘書検定準1級
- コミュニケーション検定 認定講師
活動実績
専門分野
ヒューマンスキルアップ
- 職業訓練講座
- コミュニケーション講座
- 新入社員ビジネスマナー研修
- ビジネスマナー講座
- 自己分析講座
- グループディスカッション講座
- ビジネスマナー集中対策講座
- 面接実践対策講座
- キャリア講座
- リーダシップ研修
- ロジカルシンキング講座
- 傾聴・伝達力講座
- キャリアデザイン講座
- ファシリテーション講座
- キャリア教育支援講座
- ワークショップ講座
- 就職対策講座
- 親子キャリアデザイン講座
- 幸せな “キラビト” になるための土台づくり講座
情報活用力育成
- パソコン基礎講座
- MOS資格対策講座(Word/Excel/PowerPoint/Access)
- 情報リテラシー基礎
- 情報リテラシー応用
- 情報活用力育成講座
- ネットワークの基礎講座
- プレゼンテーション演習
- サービス接遇試験対策講座
- パソコン実技応用研修
- ICT概論
- ICTビジネス
- ITパスポート対策講座
- 日商PC検定対策講座
講師育成
- 講師力UP講座
- 教員対象コミュニケーション研修
- インストラクション基礎
- インストラクション応用
- ティーチング講座
- 言いた事が伝わる資料作成のポイント
- インストラクションスキルアップ講座
指導実績
学校
- 神戸市立有野小学校
- 奈良コンピュータ専門学校
- 大阪医専
- キャリエールホテ旅行専門学校
- 東洋医療専門学校
- 池坊短期大学
- 京都女子大学
- 京都建築大学
- 大手前大学
- 関西大学
- 京都精華大学
- 佛教大学
- 帝塚山大学
- 芦屋大学
- 京都橘大学
- 立命館大学
- 同志社大学
- 同志社女子大学
- 京都光華女子大学
- 神戸松蔭女子学院大学
- 大阪電気通信大学
- 関西外国語大学
- 追手門学院大学
企業
- 住友生命保険相互会社
- 株式会社ジェイス
- 竹中工務店
- 西松建設株式会社
- 新大阪ステーションホテル
- 株式会社ウィル
- 株式会社コベルコパーソネル
- リコーテクノシスムズ株式会社
- 中西金属工業株式会社
- 株式会社関西新幹線サービック
- 株式会社ビジュアルアーツ
- 株式会社クラッチ.
- かんぽ生命
- 大阪市整備局
- 大阪ガス株式会社
- 大阪ガスビジネスクリエイト株式会社
- ミニョン アイラッシュデザインサロン
- 株式会社パソナ
団体
- 吹田市立男女共同参画センター
- 資格とキャリアのスクールノア
- 新大阪ロータリークラブ
- 宝塚市勤労対策
- 京都府金融広報委員
- 東大阪市役所
- 就活ファクトリー東大阪
- Re:workにしのみや