私は50歳3ヶ月の時、出向しました。当時、定年60歳の2~3年前に出向するパターンがほとんどでしたので、これは異例中の異例です。その理由は、どこからも聞く事ができませんでした。
出向に当たって、私は出向先に完全に同化する事を決意し、実行しました。この目標は、ほぼ達成したと思っております。しかし、このため、親元への自己アピールは欠落したと思います。このためか、地位は上昇しましたが、処遇面では必ずしもリンクせず、苦渋をなめました。これも過去の秘話となりましたが。
リタイヤしたのは、61歳6ヶ月でしたから、出向期間(移籍ではありません)は実に11年3ヶ月となり、珍記録ではないかと思っております。
9月21日掲載のブログ「自伝づくり始末」でふれた第6話「〇〇商事から〇〇アクセスへ」の原本を前編と後編にしてご紹介します。
昭和63年3月31日付で〇〇商事に取締役として出向が発令されました。〇〇商事は大阪に本社を置き、近畿を中心とする中堅食品卸売問屋でした。
【前編】
卸売業は、各種の食品をメーカーから仕入れ、品揃えして、小売業へ卸すのが仕事です。小売業の力が弱かった時代は、問屋の力は強大で “そうは問屋が卸さない” という言葉は誰でも知っております。親会社もたくさんのメーカーの中の一(いち)仕入先にすぎない事となり、色々な仕入先の長所や短所がよく見える立場となり、親会社から、中元、歳暮が届きました。
一年間は、卸売業の実務を把握する期間となり、二年目から、低温食品部門(アイスクリーム、冷凍食品、チルド食品等)の担当役員となりました。当時、アイスクリーム部門が大赤字でしたので、業務内容の分析と、対応策の模索、その実行に全力を傾注し、社長の助言や部下の協力を得て、黒字化に成功しました。
平成4年に至り、関西の〇〇商事、△△商事と関東の三社(いづれも親会社の系列問屋)の五社が対等合併する事が、極秘で決まりました。△△商事は、親会社の資本が一部入っているとはいえ、創業当時、北海道のバターを関西で販売するため、創業者達が日参した老舗問屋です。
新会社が誕生すると、実質的に日本最大の食品卸企業となるものでした。そのための下準備が必要で、各種部会が発足、五社の役員が極秘に会合を重ね、平成5年10月、新会社〇〇アクセスが誕生しました。合併五社の役員70余名の内から、10数名、親会社から数名(社長候補、支社長等)が新役員に就任しました。私もその一員に選任されました。親会社から出向し、〇〇商事、五年の経験者である事が、評価されたものと思われます。
近畿支社の低温営業部長、営業企画部長を歴任しました。この間、阪神大震災に遭遇、諸対応(社員の安否確認とフォロー、復旧対策の検討、臨時物流体制の確立等)の指揮にも当たりました。また、非常勤ながら、子会社の社長も兼務しました。
【後編】に続く・・・