ハピネスキャリアプロジェクトとは?

自伝第二話「社会人としてのスタート」

翁のひとりごと | 氣愛塾 翁のひとりごと

本日(3月27日)は第二話「社会人としてのスタート」です。

~資料は残っていませんが、大学卒50名、高校卒50名、計100名位の新入社員でした。大卒者は全国から幅広く採用され、北海道大学をはじめ、早稲田、慶応、東北大学等で、高卒者は北海道全域の高校から選抜されておりました。いづれも、生産系、事務系、獣医系(大卒)に別れての採用でした。

4月1日から21日までの新入社員訓練が終了し、憧れの社章と辞令(赴任地通知)が渡されました。その辞令には、伊達工場勤務とありました。バター、チーズを造る工場で、事務課に配属されましたが、8月には早くも東瀬棚工場に配転となりました。東瀬棚工場の事務課主任が栄転するので、優秀な新人が必要だったと、後で聞きました。

当時は、会社が拡大期で、全国各地に工場や支店等が開設され、人材の調達は、現地採用が多かったのですが、本社採用の人材は注目され、悪い気がしなかったものです。

2年目には、工場(練乳製造)の原価計算の作成を命じられ、これが出来るようになりました。20歳の時です。これが出来ると、工場の事務屋としては、一人前と評価されました。工場の近くにある食料品店に下宿し、乏しい小遣いで、よく田舎町の飲み屋に通いました。初任給は7千円位でした。

昭和34年6月、工場閉鎖(合理化)を見込んだ営業部門強化の為の人事移動(全社的に)が発令され、私は広島支店勤務を命じられました。当時、広島と聞き、あまりの遠さに海外赴任するような気持ちでした。~

以上で、第二話終了していますが、当時、一般家庭には電話がほとんどありませんでした。職場の電話に慣れるまで大変でした。又、ボーナスの一部が、バターで現物支給されたりしました。いづれも今では信じられない話です。

※4月からは、日曜日毎の掲載とさせて頂きます。4月7日の日曜日からとなります。日曜日にゆっくり御覧頂きだければ幸いです。

自伝第二話「社会人としてのスタート」| 氣愛塾

タイトルとURLをコピーしました