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自伝第四話「大阪時代」

翁のひとりごと | 氣愛塾 翁のひとりごと

~昭和46年10月、大阪総括支店乳食品販売部勤務となり、販売企画課に配属となりました。ここでも、労働組合の支部委員長に推され、就任しました。

当時、春闘と呼ばれる3月から4月は、厳しい労使交渉が展開され、ストライキが頻発しました。生産、工場支部に急進的思想の組合員が増え、ストライキが労使交渉の手段というよりも、労働者自身の自覚を促すためにも必要だ、と論ずる本部役員が増える有様でした。営業部門(支店)支部の組合員は、ストライキ先行ではなく、もっと会社側と話し合うべきとの “話し合い路線” を求める声が高まっていましたが、中央本部に役員として乗り込む勇気のある人はほとんどいませんでした。

大阪支店支部から、私が出馬すべきとの空気が強く感ぜられ、中央執行委員に立候補する事を決意しました。中央執行委員は、本部役員として、大変重い役目です。身分は休職扱いとなり、賃金は労働組合の賃金(組合員の積立金)から支払われます。賢い人は、昇進にも支障となるので、自分では引き受けません。房子の同意(大抵の奥さんは大反対しますが)を得て、私は立候補したのです。

組合の全国大会で圧倒的な信任(代議員103名中、98名の信任だった様に記憶しております)を受け、就任しました。昭和48年10月の第一次オイルショックの時でした。

西日本(近畿、中四国、九州)地区担当の代表となり(中央執行委員3名と書記1名が大阪に在住)、工場(福山、松山、徳島、久留米、佐世保)の合理化(閉鎖)の取り組みや、春闘期前後の支部オルグ等で4~5日間、家を空ける事は普通でした。

あの頃の労働組合の世界は魔界でした。リーダーとして毅然とした姿勢が求められた様に思います。色々なドラマがあり、これだけで別冊が出来ますので、今回は省きます。

3年の任期を無事終えて、昭和51年10月、職場復帰しました。3年後の昭和54年12月、サラリーマンの一つの目標である、管理職に登用され、高松支店冷凍食品課長として、赴任しました。40歳でした。雅子や貴子は学期(小学校)の途中で転校となり、年末、慌ただしく高松へ行きました。~

以上で第四話終了してますが、昨年8月13日のブログ「半世紀前の労働組合の想い出」にリンクする部分です。昭和54年の年末に一家4人転居したのですが、私が単身赴任する事は全く考えられない時代でした。

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