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半世紀前の労働組合の思い出

翁のひとりごと | 氣愛塾 翁のひとりごと

当時、労働組合は現在とは比較にならないほど重い存在でした。春闘と呼ばれ4月を中心にあらゆる職場でストライキが続発しました。交通もストップし労使間の力関係は労働組合の方が優位でした。使用者(経営者)側は常に職場の動向に神経を使っていたと思います。

労働者は労働力を使用者に提供し、その対価として賃金を得ているので、今の労働条件を改善(含賃上げ)するための手段として、一時的に労働力の提供を組織的に停止するのがストライキでした。従ってこの時間は賃金カットとなりますので、労働組合は、闘争積立金から会社側へ一括相当分を支払っておりました。左派(対決姿勢が強い)の勢いが強く、ストライキによって労働者自身の自覚も高まるとして、組織強化をはかるのが労働界の常識でした。

私は1973年の第一次オイルショックの時、勤務する会社の労働組合(7千名)の中央本部役員(中央執行委員)に、大阪支店支部(支部委員長)から立候補、全国大会で当選し、3年間専従(会社は休職)しました。上部団体である食品労連の書記長を、歴代送り出す単組でもありました。

ストライキ主導でなく、もっと会社側と話し合いを重視すべきとの主張は、当時の激流の中ではどうしても弱々しいものでした。しかし労使は共存共栄であるとの価値観は、一部の極左を除いて共有できていたのは救いでした。ただストライキに慎重な姿勢を示すと、会社側の意向を忖度していると見られがちで、誤解を生まないよう発言や行動に、ずいぶん注意したものです。

私は西日本地方局(大阪工場内に中央執行委員3名常駐)の代表として、関西、中四国、九州の全支部を統括していましたが、丁度この時、市乳工場の閉鎖(福山、松山、徳島、久留米、佐世保)の問題が、一挙に押し寄せて来ました。当該支部の支援、会社側(関西、九州事業本部)との交渉に、忙殺されました。

全ての従業員を解雇する事なく配転(全国の職場へ)するというもので、現在では想像もつかない話しでしたが、度重なる交渉の結果、退職一時金制度の導入で決着する事が出来ました。労使の対等で冷静な話し合いが、深刻な事態を回避出来たと今でも思っております。

今ふりかえると、よく体と頭が動いたものだと思います。30代後半の恐れを知らない時代だったのです。あの頃の労使交渉の立役者達はほとんど他界し、時代は大きく変わりました。

ストライキのやり方を実戦的に指導出来る人はもういないと思います。

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